栃木県那須郡那珂川町にある唐御所横穴(からのごしょよこあな)は、凝灰岩の丘陵を掘って造られた古墳時代後期の横穴墓です。
内部には切妻屋根や棟木を表現した精巧な玄室があり、石で造られた墓でありながら、当時の建物を思わせる姿をしています。
一方、「唐御所」という名前から中国の唐王朝との関係を想像する人もいるでしょう。
地域には平将門の娘にまつわる伝説も残っていますが、横穴墓の考古学的な年代と伝説が生まれた時代は異なります。
ここでは、唐御所横穴の築造年代や構造、周辺の横穴墓群、被葬者をめぐる見解、名前の由来、見学情報を、確認されている事実と伝承に分けて紹介します。
唐御所横穴とは
栃木県那珂川町和見にある国指定史跡
唐御所横穴は、栃木県北東部の那珂川町和見に位置する横穴墓です。
横穴墓とは、丘陵や崖の斜面に横方向の穴を掘り、その奥に遺体を納める空間を設けた墓を指します。
石を積み上げて埋葬室を造る横穴式石室とは異なり、唐御所横穴では凝灰岩の岩盤そのものが掘り抜かれています。
凝灰岩は、火山灰などが固まってできた岩石です。
加工しやすい性質を持つため、那珂川流域では丘陵の露頭を利用した横穴墓が数多く造られました。
唐御所横穴は1934年(昭和9年)12月28日に国の史跡へ指定され、現在は那珂川町が管理しています。
唐御所横穴の基本情報
- 名称:唐御所横穴(からのごしょよこあな)
- 種別:国指定史跡
- 所在地:栃木県那須郡那珂川町和見
- 時代:古墳時代後期から飛鳥時代にかけて
- 推定築造年代:6世紀後半から7世紀頃
- 墓の形式:凝灰岩の丘陵を掘り込んだ横穴墓
- 国史跡指定日:1934年(昭和9年)12月28日
- 管理者:那珂川町
「古墳時代後期」と「飛鳥時代」という表現が併用されるのは、6世紀末から7世紀にかけての時期区分に重なりがあるためです。
資料によって表記は異なりますが、いずれも古墳文化が終わりへ向かい、律令国家の形成が進んだ時期の墓であることを示しています。
唐御所横穴が造られた時代
6世紀後半から7世紀頃の横穴墓
那珂川町の最新の公式解説では、唐御所横穴は6世紀後半から7世紀頃に築かれたと考えられています。
栃木県の文化財情報では、古墳時代終末期に当たる7世紀代の築造とする見方が示されています。
この年代は、巨大な前方後円墳の築造が終わりに近づき、小規模な古墳や横穴墓が各地に広がった時期です。
ただし、横穴自体から被葬者の名前や築造年を直接示す文字資料が見つかったわけではありません。
年代は、玄室の形、埋葬施設の構造、周辺の墓との比較などをもとに推定されています。
北向田・和見周辺に広がる大規模な墓域
唐御所横穴のある丘陵は、那珂川と小口川に挟まれた舌状の地形です。
県の解説によると、尾根の西側には北向田横穴群、東側には和見横穴群が分布し、唐御所横穴は和見側に属します。
那珂川町が現在確認している横穴墓は、周辺の4支群を合わせて93基です。
調査範囲や分類方法によって過去の資料に記された基数が異なる場合がありますが、町の最新情報では栃木県内最大級の横穴墓群と評価されています。
これほど多くの墓が一定の地域に集まることは、複数世代にわたって利用された墓域であった可能性を示します。
ただし、93基が同時に築かれたわけではなく、各横穴の詳しい造営順序には未解明の点が残されています。
唐御所横穴の構造と特徴
玄室・玄門・羨道・前庭で構成される
唐御所横穴はほぼ南を向いて開口し、奥から玄室、玄門、羨道、前庭という空間が設けられています。
玄室は遺体を安置する中心部分、玄門は玄室の入口、羨道は玄室へ通じる通路です。
前庭は入口の外側に広がる場所で、埋葬に伴う儀礼などに使われた可能性がありますが、唐御所横穴で行われた具体的な儀式までは分かっていません。
栃木県の公開資料による主な規模は次の通りです。
- 横穴の全長:約4.78メートル
- 玄室の長さ:約2.75メートル
- 玄室中央部の幅:約2.34メートル
- 玄室の高さ:約1.9メートル
- 前庭の長さ:約1.94メートル
- 前庭先端部の幅:約3.8メートル
人が立てるほどの高さを持つ玄室は、単なる岩穴ではありません。
各部を計画的に削り分けた、当時の高度な石材加工技術を伝える遺構です。
家の内部を表現した切妻形の天井
唐御所横穴を代表する特徴が、家の内部を思わせる玄室です。
天井の中央には、屋根を支える棟木のような部分が岩から削り出されています。
その左右には切妻屋根に似た傾斜が付けられ、玄室全体が一戸の建物のように整えられています。
古墳時代の人々が、死者のための空間を現実の住居になぞらえて造った可能性は考えられます。
しかし、家形の玄室がどのような死後観を表していたのか、具体的な意味までは確定していません。
コの字形に配置された3基の棺座
玄室の床には、遺体を安置する場所と考えられる棺座が3基造り出されています。
奥壁に沿って横向きに1基、左右の側壁に沿って縦向きに2基が置かれ、上から見るとコの字形に並びます。
奥壁側と右側壁側の棺座はほぼ同じ高さですが、左側壁側は一段低く造られています。
この配置は、複数の人物を納めることを前提としていた可能性を示します。
ただし、3基の棺座が同時に使われたのか、後から追葬が行われたのかについては、公開されている公式解説だけでは断定できません。
入口を閉じる戸のような設備
玄門の外側には、戸や閉塞材を取り付けるためとみられる彫り込みや、ほぞ穴が残っています。
現在まで木製の戸そのものが残っているわけではありませんが、墓の入口を開閉または封鎖する仕組みがあったことをうかがわせます。
天井、棺座、入口の細工まで凝灰岩から丁寧に造り出していることが、全国的に見ても精巧な横穴墓と評価される理由です。
横穴の上に墳丘を伴う可能性
那珂川町の公式解説では、唐御所横穴の上方に墳丘が伴うとみられることも注目されています。
一般的な横穴墓は斜面に開口する姿が目立ちますが、唐御所横穴では、斜面内部の墓室と地表の盛り土が組み合わされていた可能性があります。
この特徴は、土を盛る古墳と岩盤を掘る横穴墓の関係を考えるうえで重要です。
ただし、墳丘の当初の形や規模が完全に復元されているわけではありません。
唐御所横穴には誰が葬られたのか
横穴墓群の中心人物の墓とみられている
唐御所横穴は、周辺の横穴墓より高い位置にあり、構造も際立って精巧です。
そのため、栃木県の解説では横穴墓群の「主墓」、つまり墓域の中心となる人物の墓であった可能性が示されています。
大規模な墓室を造らせることができた点から、被葬者が地域社会で高い立場にあったと考えることはできます。
しかし、氏名や官職を示す墓誌などは確認されていないため、特定の豪族名と結び付けることはできません。
3基の棺座が残す疑問
3基の棺座は、唐御所横穴が一人だけのために設計された墓ではない可能性を感じさせます。
家族や同じ集団に属する人々が葬られたことも考えられますが、被葬者同士の関係は分かっていません。
棺座の高さが一部異なる理由についても、身分差、埋葬時期、施工上の事情など複数の可能性が考えられるものの、決定的な証拠は示されていません。
誰が眠っていたのかという疑問は、唐御所横穴に残る大きな謎の一つです。
発掘調査と文化財としての歩み
江戸時代から知られていた横穴
唐御所横穴は、近代の発掘調査で初めて見つかった遺跡ではありません。
栃木県の文化財紹介によると、「唐御所」という名称は江戸時代初期の地誌『那須記』にすでに見られます。
当時の人々は、家のように整った内部を見て、高貴な人物の住まいと考えたとされています。
那珂川町は、江戸時代の史料や絵図に名称が記され、徳川光圀が訪れたことを伝える史料も残ると説明しています。
これらは、唐御所横穴が考古学という学問の成立以前から、地域の特別な場所として認識されていたことを示しています。
国史跡指定と近年の調査
唐御所横穴は、玄室が良好に残り、周囲の横穴とは異なる精巧な構造を持つことなどが評価され、1934年に国史跡へ指定されました。
指定時の文化財解説にも、玄室と前室、方形の入口、戸を設けた痕跡、棟木を刻んだ天井が記録されています。
その後も周辺を含めた調査が進められ、那珂川町教育委員会は成果を『唐御所横穴墓群発掘調査報告書』として2023年に刊行しました。
現在の町の解説では、周辺で93基の横穴墓が確認されたことや、唐御所横穴に墳丘が伴う可能性が紹介されています。
「唐御所」の名前と平将門伝説
中国の唐王朝が築いた墓ではない
「唐御所」という名称に「唐」の字が含まれていますが、中国の唐王朝の人物がこの墓を築いたと示す考古学的証拠は確認されていません。
築造年代は東アジアで唐が成立した時期と一部重なるものの、年代が近いことだけでは直接的な関係の証明にはなりません。
現在の考古学では、那珂川流域に展開した古墳時代後期の墓制を示す遺跡として位置付けられています。
平将門の娘が逃れてきたという伝説
地域には、平将門の娘がこの地へ逃れ、横穴で子どもを産んだという伝説が残っています。
県の文化財紹介では、この伝説が「唐御所」という名の由来として紹介されています。
平将門が活動したのは10世紀前半であり、横穴墓が造られたと考えられる6世紀後半から7世紀頃より数百年後です。
したがって、この物語を横穴の築造事情を伝える史実として扱うことはできません。
古代の墓が後世に住居や御所と見なされ、地域の歴史上よく知られた人物と結び付けられた伝承として受け止める必要があります。
唐御所横穴の歴史的価値
古墳時代終末期の墓づくりを伝える
唐御所横穴は、巨大な墳丘を築く墓から、多数の横穴を集めた墓域へと葬送の形が多様化した時代を伝えています。
岩盤を掘る技術だけでなく、入口を閉じる設備や遺体を納める棺座まで確認できるため、当時の埋葬空間を立体的に理解できる遺跡です。
那珂川流域の社会を考える手がかり
周囲に93基もの横穴墓が分布することから、この地域には墓域を長期間維持した集団が存在したと考えられます。
唐御所横穴とほかの横穴との規模や位置の違いは、集団内の立場や墓の造営順序を考える資料になります。
ただし、墓の規模だけから身分制度や具体的な政治組織を断定することはできません。
建物を岩に表現した造形
切妻形の天井と棟木、コの字形の棺座、戸を思わせる入口は、実用だけでは説明しきれない丁寧な造形です。
死者の空間を家に見立てた可能性や、埋葬された人の立場を示す意図などが考えられますが、当時の人々が込めた意味は解明されていません。
分からない部分を残しながらも、石を削って建築的な空間を造った技術を間近に確認できる点が、唐御所横穴の大きな魅力です。
唐御所横穴の見学情報
所在地・アクセス・料金
- 名称:唐の御所横穴
- 所在地:栃木県那須郡那珂川町和見
- 住所:〒324-0612 栃木県那須郡那珂川町和見2538
- 公共交通:JR宇都宮線氏家駅東口から関東バス馬頭車庫行きに乗車し、「都橋」で下車して徒歩約5分
- 車:東北自動車道矢板インターチェンジから約40分
- 見学時間:外観は常時見学可能
- 料金:無料
- 休館日:屋外史跡のため設定なし
- 駐車場:無料、5台
- トイレ:あり
- 内部見学:那珂川町教育委員会へ事前連絡が必要
- 問い合わせ:那珂川町教育委員会生涯学習課文化財係、電話0287-96-3366
- 特徴:家形の玄室、3基の棺座、戸を設けた痕跡が残る精巧な横穴墓
交通情報や公開条件は変更される場合があるため、訪問前に那珂川町または栃木県の公式情報を確認してください。
見学時に注目したいところ
現地では、横穴の入口だけでなく、それが丘陵のどの高さに設けられているかにも注目すると、墓群の中での特別な位置が分かりやすくなります。
周辺の遊歩道では、姫穴、厩穴、遠見穴などの横穴墓も見学できます。
複数の横穴を見比べることで、唐御所横穴の大きさや造りの丁寧さがより明確に感じられるでしょう。
ただし、唐御所横穴の内部は自由に立ち入れる場所ではありません。
文化財を傷つける行為や、許可のない立ち入りは避けてください。
丘陵の遊歩道は天候によって滑りやすくなる可能性があるため、歩きやすい靴を用意すると安心です。
なす風土記の丘資料館も合わせて訪れる
唐御所横穴をより深く知りたい場合は、那珂川町なす風土記の丘資料館も立ち寄り先の候補になります。
資料館では、実物資料、復元模型、映像などを通して那須地域の歴史を紹介し、唐御所横穴も展示テーマの一つに含まれています。
- 名称:那珂川町なす風土記の丘資料館
- 住所:〒324-0501 栃木県那須郡那珂川町小川3789
- 開館時間:9時30分から17時まで、入館は16時30分まで
- 休館日:月曜日、祝日の翌日、年末年始、展示替え期間など
- 入館料:一般100円、高校生・大学生50円、小学生・中学生以下無料
- 問い合わせ:0287-96-3366
月曜日が祝日の場合の扱いや臨時休館については、訪問前に公式サイトで最新情報を確認してください。
唐御所横穴に関するFAQ
唐御所横穴は「唐の御所横穴」と同じ場所ですか?
同じ史跡です。
国指定史跡としての名称は「唐御所横穴」ですが、観光案内などでは「唐の御所横穴」と表記される場合があります。
読み方はいずれも「からのごしょよこあな」です。
唐御所横穴と中国の唐王朝には関係がありますか?
両者の直接的な関係を示す考古学的証拠は確認されていません。
「唐御所」は江戸時代初期の地誌にも見られる呼称で、家のような内部構造や後世の伝説から生まれた名称と考えられます。
唐御所横穴から出土品は見つかっていますか?
文化庁、栃木県、那珂川町が公開している一般向けの解説では、唐御所横穴そのものの副葬品について詳しい内容は示されていません。
出土品を根拠に被葬者を特定できる状況ではなく、被葬者の名前は分かっていません。
唐御所横穴の中へ自由に入れますか?
外観は常時公開されていますが、内部見学には那珂川町教育委員会への事前連絡が必要です。
保存状況などによって対応が変わる可能性があるため、訪問前に文化財係へ確認してください。
まとめ
唐御所横穴は、那珂川町和見の凝灰岩丘陵に築かれた、6世紀後半から7世紀頃の横穴墓です。
切妻屋根と棟木を表した玄室、コの字形に並ぶ3基の棺座、入口を閉じるための設備などが良好に残り、全国屈指の精巧な例と評価されています。
周囲では4支群93基の横穴墓が確認されており、唐御所横穴は墓群の中心となる人物の墓だった可能性があります。
ただし、被葬者の身元や3基の棺座の使われ方、家形の空間に込められた意味は分かっていません。
平将門の娘にまつわる物語は、築造時の史実ではなく、古代の墓が地域で語り継がれる中で生まれた伝説です。
精巧な構造と後世の物語の両方に目を向けることで、唐御所横穴が考古学的な遺跡であると同時に、長く人々の記憶に残ってきた場所であることが見えてきます。

