栃木県下都賀郡壬生町にある牛塚古墳は、前方部が短い独特な形をした前方後円墳です。
東隣には巨大な円墳の壬生車塚古墳があり、南へ約500メートル進むと壬生愛宕塚古墳があります。
一見すると小高い丘のようですが、2015・2016年度の発掘調査により、地上からは分かりにくい深い周溝や、特徴的な二段構造が明らかになりました。
また、一般的な灰色ではなく、埴輪のような赤色に焼かれた須恵器も見つかっています。
ここでは、牛塚古墳の形と規模、築造年代、出土品、周辺の古墳との関係、現在も分かっていない点を紹介します。
牛塚古墳とは
黒川東岸の台地に築かれた国指定史跡
牛塚古墳(うしづかこふん)は、栃木県下都賀郡壬生町大字壬生甲字車塚に位置しています。
黒川東岸の台地上に築かれた前方後円墳で、1926年2月24日に国の史跡に指定されました。
築造時期は、栃木県の文化財案内では6世紀末から7世紀初めごろと考えられています。
古墳時代の終わりに近い時期で、各地で前方後円墳が造られなくなっていくころに当たります。
ただし、築造年を直接記した文字資料はありません。
年代は、墳丘の形や出土した須恵器、周辺の古墳との比較から検討されたものです。
「牛塚」という名前の由来
牛塚という名称は、墳丘を横から見た姿が、牛の寝そべる姿に似ていたことに由来すると伝えられています。
これは地名や古墳名にまつわる伝承であり、古墳に牛が葬られていたことを示すものではありません。
現在までに確認されている公的な資料からは、牛との直接的な関係は分かっていません。
牛塚古墳の形と規模
前方部が短い帆立貝形の前方後円墳
牛塚古墳は、円形に近い後円部に短い前方部が付いた形をしています。
前方部の先端が大きく広がらないため、上から見ると帆立貝に似ています。
このような墳形は「帆立貝形前方後円墳」と呼ばれることがあります。
ただし、通常の前方後円墳と帆立貝形古墳の境界には研究上の分類差があります。
壬生町立歴史民俗資料館は、牛塚古墳を前方後円墳としたうえで、帆立貝形と呼ぶこともあると説明しています。
二段築成と幅広い第一段平坦面
墳丘は二段に築かれています。
第一段の上に広い平坦面を設け、その中央寄りに第二段を重ねる構造です。
下段の平坦面が広い点は、栃木県南部に見られる後期・終末期古墳の特徴を考えるうえで重要です。
墳丘の表面を石で覆う葺石は確認されていません。
埴輪も出土しておらず、円筒埴輪や人物埴輪を並べた古墳とは外観が異なっていたと考えられます。
発掘調査で判明した規模
2015・2016年度の発掘調査により、牛塚古墳の規模が詳しく確認されました。
栃木県の文化財情報による主な数値は、次のとおりです。
- 周溝などを含む全長:約70メートル
- 墳丘長:49.5メートル
- 後円部直径:約38メートル
- 墳丘:二段築成
資料によって「全長約50メートル」や「約70メートル」と記されるのは、測り方が異なるためです。
約50メートルは主に土を盛った墳丘の長さを示し、約70メートルは周囲の周溝を含めた古墳全体の広がりを示します。
古い案内に異なる数値が残っていても、必ずしも誤りとは限りません。
何を範囲に含めた数値なのかを確かめる必要があります。
発掘調査で見えてきた牛塚古墳の姿
地中に埋もれていた特異な周溝
墳丘の周囲には、周溝と呼ばれる堀が巡っていました。
現在は大部分が埋まっているため、地上から全体の形を見分けるのは容易ではありません。
発掘調査では、周溝の中央付近がさらに深く掘り下げられた、二段掘りの構造が確認されました。
単に墳丘の周囲から土を採取しただけではなく、周溝の形そのものを意識して造ったことがうかがえます。
堀の外側には土を盛った周堤帯があったと考えられており、築造当時は現在よりも広い範囲が墓域として区画されていました。
国指定当時の記録と新しい調査の違い
文化庁の国指定文化財等データベースには、指定当時の説明として、平地に築かれた南向きの前方後円墳であることや、当時の墳丘高などが記録されています。
一方、2015・2016年度の調査では、埋没した周溝を含む平面形と規模が改めて確認されました。
つまり、1926年の史跡指定は地上に残る墳丘を中心に価値を認めたものであり、近年の調査は地下に残る構造を加えて古墳の全体像を更新したことになります。
古い記録と新しい発掘成果を比べると、牛塚古墳が長く保存されながら、研究によって姿を変えて見せてきたことが分かります。
埋葬施設と被葬者は確定していない
栃木県の文化財情報では、石室の位置は前方部正面と想定されています。
しかし、公開されている案内だけでは、石室の構造や規模、内部の副葬品まで詳しく確定していません。
被葬者の名前を示す墓誌や文字資料も確認されていないため、特定の人物の墓と断定することはできません。
墳丘の規模や周辺の大型古墳との関係から、有力者を葬った可能性は考えられますが、その身分や一族については今後の研究課題です。
赤く焼かれた須恵器が示す変化
埴輪のような色を持つ須恵器甕
牛塚古墳からは、須恵器の甕の破片が出土しています。
須恵器は窯の中へ酸素が十分に入らない状態で高温焼成するため、一般には青灰色になります。
ところが、牛塚古墳の須恵器甕は赤色をしています。
壬生町立歴史民俗資料館は、埴輪のような赤色になるよう、意図的に焼かれたものと考えています。
偶然赤くなった焼き損じではなく、古墳上で使用する目的に合わせて色を選んだ可能性がある点が注目されます。
埴輪から須恵器へ移る過渡期の資料
約500メートル南にある壬生愛宕塚古墳では、円筒埴輪列や盾持人埴輪が確認されています。
これに対し、牛塚古墳から埴輪は出土せず、赤焼きの須恵器甕が見つかりました。
さらに東隣の壬生車塚古墳でも、墳丘や周堤帯に須恵器甕が置かれていました。
この違いから牛塚古墳は、墳丘を埴輪で飾る習慣から、須恵器の大甕を用いる習慣へ移る過渡期に位置づけられています。
ただし、赤い須恵器が埴輪とまったく同じ役割を果たしたのか、どのような儀礼に使われたのかまでは確定していません。
周辺古墳との関係
壬生愛宕塚古墳との違い
壬生愛宕塚古墳は、全長約82メートルの前方後円墳です。
二重周溝と葺石を備え、埴輪列も確認されています。
牛塚古墳より規模が大きく、埴輪を用いる点でも違いがあります。
両者を比べると、同じ地域の前方後円墳でも、築造時期によって墳丘の飾り方が変化したことが見えてきます。
壬生車塚古墳との違い
牛塚古墳の東側には、直径約84メートルの壬生車塚古墳が隣接しています。
壬生車塚古墳は三段築成の大型円墳で、葺石、二重周溝、凝灰岩の一枚石を用いた横穴式石室を備えています。
前方後円墳の牛塚古墳と、巨大な円墳の壬生車塚古墳が並ぶ景観は、古墳時代終末期に墳形が変化していく流れを考える手がかりになります。
また、両古墳から須恵器甕が確認されているため、造墓に関わった人々や儀礼の間に何らかのつながりがあった可能性も検討されています。
しかし、牛塚古墳と壬生車塚古墳の被葬者が血縁関係にあったかどうかは分かっていません。
牛塚古墳の見学情報
所在地とアクセス
- 名称:牛塚古墳
- 読み方:うしづかこふん
- 所在地:栃木県下都賀郡壬生町大字壬生甲字車塚
- 文化財指定:国指定史跡
- 指定年月日:1926年2月24日
- 所有者・管理者:壬生町
- 公開状況:見学可
- 公共交通:東武宇都宮線「壬生駅」から徒歩約20分
- 特徴:短い前方部、二段築成、幅広い第一段平坦面、二段掘りの周溝
- 注意点:屋外の史跡であり、現地の状態や立入可能な範囲が変わる場合があります。見学前に栃木県または壬生町の最新情報を確認してください。
牛塚古墳と車塚古墳を見比べる
見学時には、墳丘の高さだけでなく、低く広がる第一段平坦面にも注目すると、牛塚古墳の二段構造を理解しやすくなります。
前方部が短いため、地上から帆立貝形の全体像をつかむのは難しいものの、東隣の壬生車塚古墳と見比べると墳形の違いが分かります。
時間に余裕があれば、南側の壬生愛宕塚古墳も合わせて巡ると、前方後円墳から大型円墳へ変化する様子や、埴輪から須恵器へ移る過程を一つの地域でたどれます。
牛塚古墳についてのFAQ
牛塚古墳の石室は見学できますか?
牛塚古墳では石室の位置が想定されていますが、壬生車塚古墳のように開口した石室を見学できるとは公式に案内されていません。
栃木県の案内では、隣接する壬生車塚古墳は石室も見学可能とされています。
保存や安全管理のため公開状況が変わる可能性があるので、訪問前に最新情報を確認してください。
牛塚古墳の出土品はどこで確認できますか?
壬生町立歴史民俗資料館のデジタルミュージアムでは、牛塚古墳から出土した赤焼き須恵器甕の写真と解説を確認できます。
実物の展示状況は企画展や展示替えによって変わる可能性があるため、来館前に資料館へ確認すると確実です。
牛塚古墳と壬生車塚古墳は同じ古墳ですか?
別の古墳です。
牛塚古墳は短い前方部を持つ前方後円墳で、壬生車塚古墳はその東側に隣接する大型円墳です。
どちらも国指定史跡ですが、墳形、段数、葺石の有無、石室の確認状況が異なります。
まとめ
牛塚古墳は、栃木県壬生町の黒川東岸に築かれた、古墳時代後期から終末期の前方後円墳です。
短い前方部、二段築成、幅広い第一段平坦面を持ち、発掘調査によって墳丘長49.5メートル、周溝を含む全長約70メートルと判明しました。
周溝の中央をさらに掘り下げた二段掘りの構造も、牛塚古墳を特徴づけています。
埴輪が出土しない一方、意図的に赤く焼いたと考えられる須恵器甕が見つかりました。
この出土品は、埴輪を並べた壬生愛宕塚古墳から、須恵器甕を用いた壬生車塚古墳へと、墓上の儀礼が変化した可能性を考える手がかりです。
被葬者や石室の全容、赤焼き須恵器の具体的な役割は、現在も確定していません。
三つの古墳を見比べることで、古墳時代の終わりに墳形や葬送の表現が変わっていく様子を感じられる史跡です。
参考にした公式・関連資料
- 牛塚古墳|とちぎの文化財(栃木県生活文化スポーツ部文化振興課)
- 牛塚古墳|壬生町立歴史民俗資料館(壬生町立歴史民俗資料館)
- 須恵器甕(破片)|壬生町立歴史民俗資料館(壬生町立歴史民俗資料館)
- 壬生愛宕塚古墳|壬生町立歴史民俗資料館(壬生町立歴史民俗資料館)
- 壬生車塚古墳|壬生町立歴史民俗資料館(壬生町立歴史民俗資料館)
- 牛塚古墳|国指定文化財等データベース(文化庁)
- 『牛塚古墳・車塚古墳I―栃木県壬生町・国指定史跡保存活用計画書策定に伴う発掘調査』書誌情報(CiNii Books/国立情報学研究所、壬生町教育委員会2018年刊行)

