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車塚古墳とは?国内最大級の円墳と石室・二重周溝を解説

古代遺跡と考古学
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栃木県下都賀郡壬生町にある車塚古墳は、古墳時代の終わりに近い7世紀前半ごろに築かれたと考えられる大規模な円墳です。

直径80mを超える三段の墳丘、その周囲を巡る二重の周溝、巨大な石を組み合わせた横穴式石室が残っています。

古墳の規模や構造だけでなく、埴輪の代わりに須恵器の大甕を並べたとみられる点も注目されています。

ここでは、車塚古墳の特徴、発掘調査で変わった規模の理解、石室に残る赤色顔料、被葬者の謎、見学時のポイントを紹介します。

車塚古墳とは

壬生町に残る古墳時代終末期の大円墳

車塚古墳は、栃木県下都賀郡壬生町大字壬生甲字車塚にある円墳です。

円墳とは、上から見た墳丘が円形になる古墳を指します。

壬生町立歴史民俗資料館は築造時期を古墳時代終末期、栃木県の文化財情報は7世紀前半ごろとしています。

前方後円墳が造られなくなり、大型古墳の形や葬送の方法が変化していく時期にあたります。

車塚古墳は1926年2月24日に国の史跡に指定されました。

保存状態がよく、墳丘だけでなく、周囲の堀や土塁、南側に開口する石室を現地で確認できることも大きな特徴です。

国内最大級とされる理由

壬生町立歴史民俗資料館は、車塚古墳を古墳時代終末期に造られた円墳として国内最大級と紹介しています。

近年の調査成果を反映した壬生町の資料では、墳丘の直径は約84m、周溝の底からの高さは約11mです。

さらに、墳丘の外側には周溝と周堤があり、その外側でも二重目の周溝が確認されています。

円形の土山だけを見るのではなく、周囲の施設まで含めて造られた大規模な墓域として捉える必要があります。

三段に築かれた墳丘と二重周溝

第一段が幅広い三段築成

車塚古墳の墳丘は、階段状に三段で築かれています。

このように段を設けて土を盛る方法を「段築」または「段築成」と呼びます。

栃木県の文化財情報では、第一段の直径が82m、第二段が52m、第三段が32mとされています。

第一段の平坦面が幅広く造られていることが、車塚古墳の目立った特徴です。

現在は墳丘を木々が覆っていますが、築造当時は表面に葺石が施されていました。

葺石とは、墳丘の斜面を覆うように並べた石です。

栃木県の資料では、当初は墳丘全体が石で覆われていたと考えられています。

土色の丘ではなく、石に覆われた大きな墳丘が平地に立つ姿は、被葬者の権力を視覚的に示したと考えられます。

堀と土塁が墳丘を取り囲む

墳丘の周囲には、円形の周溝と周堤がほぼ完全な形で残っています。

周溝は古墳を囲む堀、周堤はその外側に設けられた土手状の部分です。

栃木県の資料では、周堤まで含めた規模は約120mとされています。

その後の発掘調査では、周堤のさらに外側から、幅約5m、深さ約1mの二重目の周溝が確認されました。

壬生町の地域史料デジタルアーカイブは、外側の周溝まで含めた全体の規模を約130mとしています。

二重周溝の発見によって、車塚古墳は見えている墳丘よりもはるかに広い範囲を計画的に使った古墳だったことが分かりました。

公式資料によって規模の数値が異なる

車塚古墳について調べると、直径60m、82m、84mという異なる数値が見つかります。

文化庁の国指定文化財等データベースには、史跡指定時の説明をもとにした直径60m、高さ8mという数値が掲載されています。

一方、近年の調査成果を反映した栃木県の資料は第一段の直径を82m、壬生町の資料は墳丘の直径を約84m、周溝底からの高さを約11mとしています。

また、栃木県が示す約120mは周堤まで、壬生町が示す約130mは新たに確認された外側の周溝まで含めた規模です。

これらは同じ範囲を同じ方法で測った数値ではありません。

現在の特徴を説明する場合は、墳丘直径約82~84m、二重目の周溝まで含む全体約130mと整理すると、各資料の内容を混同せず理解できます。

古い指定記録と新しい調査成果を比べると、発掘によって古墳の姿が少しずつ更新されてきたことが分かります。

巨大な石を使った横穴式石室

南向きに開口する石室

墳丘の南側には、横穴式石室が開口しています。

横穴式石室とは、墳丘の横から通路を通って遺体を納める部屋へ入る構造です。

車塚古墳の石室には、凝灰岩を加工した巨大な一枚石が使われています。

凝灰岩は、火山灰などが固まってできた岩石です。

大きな石材を切り出し、運び、組み合わせるには、多くの人員と高い石材加工技術が必要でした。

栃木県の解説では、墓室の手前に前室と呼ばれるもう一つの部屋と、羨道と呼ばれる通路があったと考えられています。

単純な一室だけではなく、複数の空間からなる石室だった可能性があります。

石室に残る赤色顔料

石室の奥壁には、赤く塗られていた痕跡が確認されています。

赤色顔料は、埋葬空間を彩るとともに、葬送に関わる特別な意味を持っていた可能性があります。

ただし、公式資料が確認しているのは赤色顔料の痕跡です。

人物や動物、幾何学模様などが描かれた装飾古墳の壁画とは区別する必要があります。

現在残る赤色は目立つ壁画ではないため、見学時には石の表面を傷つけたり触れたりせず、保存状態に配慮して観察することが大切です。

江戸時代にはすでに開いていた

壬生町と栃木県の資料によると、江戸時代の古文書には、当時すでに石室が開口していたことが記されています。

つまり、近代の発掘調査で初めて密閉された墓室を開けた古墳ではありません。

この点は、築造時の副葬品や埋葬の状態を復元するうえで大きな制約になります。

被葬者の名前を示す文字資料も確認されておらず、誰が葬られたのかは分かっていません。

埴輪ではなく須恵器の大甕を並べた古墳

墳丘と周堤に置かれた須恵器

車塚古墳では、墳丘上や周堤の上に須恵器の甕が置かれていたことが分かっています。

須恵器は、窯を使って高温で焼いた硬質の土器です。

周溝から須恵器の大甕の破片が見つかっており、栃木県の資料では、埴輪の代わりに大甕が並べられていたと考えられています。

古墳の外観を飾り、葬送空間を区切る方法が、従来の埴輪から別の器物へ変化していた可能性を示す資料です。

近隣古墳との比較から見える葬送の変化

車塚古墳の西側には牛塚古墳があり、近い場所には壬生愛宕塚古墳も残っています。

壬生愛宕塚古墳は全長約82mの前方後円墳で、周堤から円筒埴輪列や盾持人埴輪が出土しました。

牛塚古墳は全長約50mの帆立貝形に近い前方後円墳です。

牛塚古墳からは埴輪が出土せず、赤焼きの須恵器が見つかっているため、壬生町立歴史民俗資料館は埴輪から須恵器へ移る過渡期の古墳と位置づけています。

そして、終末期の車塚古墳では前方部のない巨大な円墳が築かれ、須恵器の大甕が墳丘や周堤に置かれました。

三つの古墳を比べると、壬生地域では大型古墳の築造が続く一方、墳形と墳丘上の飾り方が変化していったことが読み取れます。

これは、一つの古墳だけを見ただけでは分かりにくい、壬生地域ならではの重要な特徴です。

被葬者は壬生地域最後の有力者か

大規模な築造を可能にした人物

直径80mを超える墳丘に加え、二重周溝、周堤、葺石、巨大な切石の石室を造るには、大量の土木作業と石材加工が必要です。

そのため、被葬者は壬生地域を治めた有力者だったと考えられています。

壬生町観光協会や栃木県の文化財情報では、壬生地域の大型古墳に葬られた人物のうち、最後の段階にあたる権力者の墓と説明されています。

ただし、被葬者の氏名や官職を示す史料は確認されていません。

特定の歴史上の人物の墓と断定することはできません。

大円墳への変化が意味するもの

7世紀前半ごろは、各地で前方後円墳が造られなくなり、円墳や方墳が中心になる時期です。

車塚古墳も円墳ですが、規模が小さくなったわけではありません。

むしろ、終末期の円墳として国内最大級の大きさを持ち、石室や外周施設にも大きな労力が注がれています。

墳形が前方後円墳から円墳へ変化しても、地域の有力者が大規模な墓によって権威を示す仕組みは残っていたと考えられます。

一方、なぜこの時期に壬生でこれほど大きな円墳が必要だったのか、被葬者がヤマト王権や周辺地域とどのような関係を持っていたのかについては、具体的な結論が出ていません。

史跡指定と発掘調査で変わった理解

1926年に国の史跡へ指定

車塚古墳は、1926年2月24日に国の史跡へ指定されました。

文化庁の指定記録では、平地に築かれた大規模な円墳であり、葺石と巨大な切石を使った横穴式石室を備え、保存状態がよいことが評価されています。

調査によって周濠の外側を巡る外堤が確認されたため、1978年3月14日には指定範囲が追加されました。

墳丘だけでなく、古墳を囲む外周施設も一体として保存する必要が認められたことになります。

二重目の周溝が古墳の全体像を広げた

その後の壬生町教育委員会による発掘調査では、周堤の外側に二重目の周溝があることが確認されました。

これにより、車塚古墳の範囲は、かつて想定されていた墳丘と一重の周溝よりも広いことが明らかになりました。

古墳研究では、地上に見える盛土だけで規模を判断できない場合があります。

車塚古墳は、発掘調査によって地中の周溝が見つかり、墓域の設計と規模が更新された代表的な例です。

車塚古墳に残る謎

被葬者の具体的な身元

地域を治めた有力者の墓とみる考えは有力ですが、具体的な名前は分かっていません。

石室が江戸時代には開口していたこともあり、築造当初の埋葬状態をそのまま確認することは困難です。

古墳の大きさだけから、被葬者の氏族名や役職を決めることはできません。

築造年代と儀礼の詳しい姿

築造時期は、古墳の構造や須恵器などから7世紀前半ごろと考えられています。

ただし、築造を始めた正確な年や、須恵器の大甕をどのような儀礼で用いたのかまでは明らかになっていません。

大甕が置かれた位置や出土状況の検討は、埴輪を使わなくなった後の葬送儀礼を考える手がかりになります。

「車塚」という名前の由来

壬生町や文化庁の公開資料では、「車塚」という名称の由来は示されていません。

車や車輪を副葬したことが確認されているわけではないため、名称だけから築造時の用途を推測することはできません。

同名の古墳は日本各地にありますが、それぞれ別の遺跡です。

車塚古墳の見学情報

所在地とアクセス

  • 名称:車塚古墳(壬生車塚古墳)
  • 読み方:くるまづかこふん(みぶくるまづかこふん)
  • 所在地:栃木県下都賀郡壬生町大字壬生甲字車塚
  • 住所表記:壬生甲字車塚3153-1ほか
  • アクセス:東武宇都宮線「壬生駅」から徒歩約20分
  • 公開状況:見学可能。栃木県の公式情報では石室も見学可能と案内されています
  • 指定:国指定史跡
  • 管理者:壬生町
  • 主な特徴:三段築成の大円墳、葺石、二重周溝、周堤、横穴式石室、赤色顔料の痕跡
  • 見学時の注意点:公開状況が変わる可能性があるため、訪問前に栃木県または壬生町立歴史民俗資料館の最新情報を確認してください

現地で確認したい見どころ

まず注目したいのは、墳丘と周囲の堀、土塁がまとまって残る全体の形です。

木々に覆われているため一目で直径80mを超える円形を把握するのは難しいものの、周囲を意識して見ると墓域の広さが分かります。

南側の横穴式石室では、巨大な凝灰岩の一枚石が使われている点が見どころです。

赤色顔料は鮮明な絵ではなく痕跡として残っているため、公式の解説と照らし合わせて観察すると理解しやすくなります。

西側に隣接する牛塚古墳もあわせて見ると、帆立貝形に近い前方後円墳と大円墳の違いを現地で比較できます。

車塚古墳のFAQ

石室の赤い痕跡は壁画ですか?

公式資料で確認されているのは、奥壁などに残る赤色顔料の痕跡です。

人物や動物などの図像が確認された壁画とは説明されていないため、「赤く塗られた石室」と「壁画古墳」は区別したほうが正確です。

大阪府の牧野車塚古墳と同じ古墳ですか?

別の古墳です。

ここで紹介している車塚古墳は栃木県壬生町にある7世紀前半ごろの円墳です。

大阪府枚方市の牧野車塚古墳は前方後円墳で、所在地も築造時期も異なります。

検索するときは「壬生車塚古墳」または「車塚古墳 壬生町」と入力すると区別しやすくなります。

車塚古墳は天皇陵ですか?

天皇陵として指定されている古墳ではありません。

大規模な構造から壬生地域の有力者の墓と考えられていますが、被葬者を特定できる文字資料は確認されていません。

まとめ

車塚古墳は古墳時代の終わりを伝える大円墳

栃木県壬生町の車塚古墳は、7世紀前半ごろに築かれた、古墳時代終末期として国内最大級の円墳です。

三段築成の墳丘、二重周溝と周堤、葺石、巨大な凝灰岩を使った横穴式石室が確認されています。

近年の調査では、墳丘直径は約82~84m、外側の周溝まで含めた全体は約130mと理解されています。

石室には赤色顔料の痕跡が残り、墳丘や周堤には埴輪の代わりに須恵器の大甕が置かれていたと考えられています。

壬生愛宕塚古墳や牛塚古墳と比較すると、前方後円墳から円墳へ、埴輪から須恵器へと葬送の表現が変化した様子も見えてきます。

一方、被葬者の名前や具体的な政治的立場、築造の正確な年は分かっていません。

車塚古墳は、地域の有力者が大きな墓を築いた時代の最後の姿と、発掘調査によって変わり続ける古墳研究の両方を伝える史跡です。

参考にした公式・関連資料

公式資料

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