アストライアーは、「星のごとく輝く者」や「星乙女」と解釈される名前を持つギリシャ神話の女神です。
人間とともに地上で暮らしていましたが、人々が正義を失っていくと天へ去り、おとめ座になったと語られます。
ただし、古い文献をたどると、初めから一貫して「アストライアー」という女神が登場していたわけではありません。
正義の女神ディケー、星空の乙女、ローマ文学でアストライアーと明記された女神像という複数の要素が重なり、現在知られる姿が形づくられました。
ここでは、アストライアーの名前と役割、地上を去った神話、ディケーやアステリアーとの違いを古典文献に沿って紹介します。
アストライアーとは
正義と星空を結び付ける女神
アストライアーは、正義や公正を象徴する乙女神です。
古代ギリシャ語では「アストライア(Astraia)」、ラテン語形では「アストラエア(Astraea)」と表記されます。
名前は「星」を表す言葉と関係し、「星のような者」「星乙女」といった意味に解釈されています。
アストライアーの物語では、人間社会の道徳的な衰退と星座の由来が一つに結び付けられています。
正義が地上から失われた様子を、女神が天へ去る物語として表現した存在といえるでしょう。
基本情報
アストライアーについて、古典文献から読み取れる主な特徴は次のとおりです。
- 名前:アストライアー、アストライア、アストラエア
- ギリシャ語表記:Ἀστραία
- 名前の意味:「星のような者」「星乙女」など
- 属する神話:ギリシャ神話・ローマ神話
- 主な役割:正義や公正を象徴する乙女神
- 関連する女神:ディケー、テミス
- 関連する星座:おとめ座
- 主な古典文献:アラトス『ファイノメナ』、オウィディウス『変身物語』、ヒュギヌス『天文学』
アストライアーの両親は誰なのか
アストライオスとエオスの娘とする系譜
ヒュギヌスの『天文学』は、アラトスの説として、星の乙女をアストライオスとエオスの娘としています。
アストライオスは星々と結び付く神で、エオスは暁の女神です。
この系譜では、アストライアーの名前や星座との関係を理解しやすくなります。
ただし、アラトスの現存する『ファイノメナ』本文では父としてアストライオスが挙げられる一方、母の名は明記されていません。
エオスを母とする説明は、ヒュギヌスが伝えた系譜として区別する必要があります。
ゼウスとテミスの娘とする系譜
別の伝承では、ゼウスと掟の女神テミスの娘とされます。
これは、アストライアーが正義の女神ディケーと重ねられたためです。
ヘシオドスの『神統記』では、ディケーはゼウスとテミスの娘であり、季節と社会秩序をつかさどるホーライの一柱です。
そのため、「アストライアーの両親は誰か」という疑問には、一つの答えだけがあるわけではありません。
星の系譜を重視する伝承と、正義の女神ディケーとの同一視を重視する伝承が並存しています。
黄金時代に人間と暮らした正義の乙女
アラトスが描いた「乙女ディケー」
紀元前3世紀ごろの詩人アラトスは、天体を題材にした『ファイノメナ』の中で、おとめ座の由来を語っています。
そこに登場する乙女は、正義を意味するディケーと呼ばれています。
黄金の種族が生きた時代、ディケーは人間の中で暮らし、広場や大通りに姿を現して正しい決まりを説きました。
人々は争いや戦争を知らず、危険な航海に出て外国から品物を運ぶこともありませんでした。
牛と鋤で土地を耕し、農業を中心とした穏やかな暮らしを送っていたと描かれています。
この物語は、古代人が理想とした社会を示すものでもあります。
正義とは裁判や処罰だけではなく、共同体の秩序、争いのない生活、土地を耕す営みと一体のものだったのです。
銀の種族になると山へ退いた
黄金の種族が去り、銀の種族の時代になると、人間は以前ほど正しくなくなりました。
ディケーは人々から距離を置き、山に退きます。
それでも完全に見捨てたわけではなく、ときおり人々の前に現れ、道徳の衰えを戒めました。
この段階では、正義は地上から消滅していません。
しかし、人間の集まりの中心にいた女神が遠い山へ移ったことにより、人間社会と正義の隔たりが大きくなった様子が表されています。
青銅の種族を嫌い天へ去った
続く青銅の種族は、剣を作り、争いを始め、耕作を助けていた牛を食べるようになったと語られます。
ディケーはその行いを嫌い、ついに地上を離れました。
そして天上に住まいを定め、人々が夜空に見る「乙女」、すなわちおとめ座になったとされます。
アラトスの物語では、星座は単なる天体の並びではありません。
人間が失った正義を、夜空から思い出させる存在になっています。
アストライアーという名はどのように定着したのか
古い物語では「乙女」や「ディケー」だった
アストライアー神話の成立を考えるうえで重要なのは、文献ごとに女神の呼び名が異なることです。
アラトスは、おとめ座の乙女を正義の女神ディケーとして描きました。
現存する『ファイノメナ』の該当箇所では、現在一般的な固有名「アストライアー」は使われていません。
一方、ローマの詩人オウィディウスは、紀元前後に成立した『変身物語』第1巻で、地上を去る乙女をアストライアーと明記しています。
古典文献を比べると、「乙女」「正義」「おとめ座」という古い組み合わせに、アストライアーという固有名が定着していった流れが見えてきます。
オウィディウスでは最後に地上を去った神となる
『変身物語』では、黄金、銀、青銅、鉄の時代を通して、人間社会がしだいに悪化する様子が語られます。
鉄の時代には、欺き、暴力、戦争、家族間の不信まで広がりました。
その末に、敬虔な心は打ち負かされ、乙女アストライアーは天上の者たちの中で最後に、血に染まった地上を去ったと記されています。
アラトスでは青銅の種族の時代に正義が天へ去りますが、オウィディウスでは鉄の時代の出来事として語られます。
この違いは単純な誤りではありません。
時代区分と物語の組み立てが、作者によって変化したことを示しています。
おとめ座とアストライアーの関係
麦の穂を持つ天上の乙女
アラトスは、おとめ座の乙女が手に輝く麦の穂を持つと記しています。
この麦の穂に当たる星が、おとめ座の一等星スピカです。
星の名「スピカ」も、ラテン語で穀物の穂を意味します。
麦の穂は、黄金時代の農耕生活や大地の恵みを思わせる象徴です。
アストライアーが正義だけでなく、平和で秩序ある暮らしと結び付けられたことが分かります。
おとめ座の正体には複数の伝承がある
おとめ座の乙女が、常にアストライアーだけを表していたわけではありません。
ヒュギヌスの『天文学』には、正義の女神のほか、イーカリオスの娘エーリゴネーなど、異なる人物と結び付ける説が収録されています。
古代の星座神話には地域や著者による違いがあり、一つの星座に複数の由来が語られることも珍しくありません。
したがって、「おとめ座のモデルは必ずアストライアーである」と断定するより、アストライアーは有力な同定の一つと考えるほうが正確です。
てんびん座とのつながり
正義の女神は、後世の美術で天秤を持つ姿として描かれるようになりました。
このため、おとめ座の隣にあるてんびん座は、アストライアーまたはディケーが持つ正義の天秤と説明されることがあります。
ただし、星座の由来には複数の伝承があり、古代のすべての文献が同じ説明をしているわけではありません。
天秤は、女神が公平に善悪を量るという後世の象徴表現として理解するとよいでしょう。
ディケーやアステリアーとの違い
ディケーとは重なり合う関係
ディケーは、正義そのものを神格化した女神です。
アラトスがおとめ座の乙女をディケーと呼び、後世の文献が同じ物語の主人公をアストライアーと呼んだため、両者はしばしば同一視されます。
しかし、もともとの系譜や名前まで完全に同じだったと断定することはできません。
ディケーという古くからの正義の女神に、星に関係する名前とおとめ座の物語が重なったと見ると、文献間の違いを理解しやすくなります。
アステリアーは別の女神
アストライアーとアステリアーは、名前がよく似ていますが別の女神です。
アステリアーは、ティターン神族のコイオスとポイベーの娘で、レートーの姉妹、ヘカテーの母とされます。
ゼウスから逃れるために鳥へ姿を変え、海へ身を投じたという神話でも知られています。
一方のアストライアーは、正義と人間の時代区分、おとめ座に関わる女神です。
どちらも星を思わせる名前を持つため、表記だけで判断せず、系譜と物語を確認する必要があります。
アストライアーの象徴と信仰
代表的な象徴は星、麦の穂、天秤
アストライアーを表す主な象徴には、星、おとめ座、麦の穂、天秤があります。
星とおとめ座は、天へ去った物語と名前に由来します。
麦の穂はアラトスが描いたおとめ座の姿に基づき、農耕と平和な黄金時代を思わせます。
天秤は、正義の女神としての性格を視覚的に示すものです。
ただし、天秤を持つ姿はディケーやローマのユースティティアとも共有されます。
図像だけで、どの女神を描いたものか判断できない場合もあります。
独立した信仰より文学的な象徴として目立つ
現存する資料では、アストライアーは大規模な神殿や固有の祭礼を持つ女神としてよりも、詩や星座神話に登場する象徴的な存在として目立ちます。
古代にまったく信仰されなかったと断定できるわけではありませんが、アテナやアルテミスのような広い祭祀の記録は確認しにくい女神です。
正義が人間社会から離れたことを示す物語上の役割が、アストライアーの大きな特徴です。
地上へ戻るアストライアーという希望
ウェルギリウスが描いた黄金時代の再来
アストライアーの物語は、地上を去って終わるだけではありません。
ローマの詩人ウェルギリウスは『牧歌』第4歌で、「乙女が戻り、サトゥルヌスの治世が戻る」という未来を歌いました。
ここでいう乙女は、一般に正義の乙女アストライアーと解釈されています。
地上から正義が失われたという神話が、いつか平和と秩序が回復するという希望へ読み替えられたのです。
アストライアーは、人間の堕落を見届けた女神であると同時に、黄金時代の再来を告げる象徴にもなりました。
後世の王権や美術に用いられた
ルネサンス以後のヨーロッパでは、アストライアーは正義ある統治と新しい黄金時代を表す存在として利用されました。
とくにイングランド女王エリザベス1世は、処女王というイメージと結び付けられ、詩人や芸術家からアストライアーになぞらえられました。
これは古代神話の再現というより、君主の統治を理想化するために神話を政治的な象徴として使った例です。
メトロポリタン美術館には、16世紀の画家ジュリオ・カンピによる「Jupiter and Astraea」と呼ばれる素描も所蔵されています。
古代の乙女神は、時代ごとに正義、真実、統治の理想を映す姿へ変化していきました。
アストライアーについてのFAQ
アストライアーは正義の女神ディケーと同じですか?
古典文献では、両者は強く重ねられています。
ただし、古い文献ではおとめ座の乙女がディケーと呼ばれ、後の文献でアストライアーという名が明示されます。
完全に別の女神とも、初めからまったく同一の女神だったとも言い切らず、伝承の発展の中で同一視されたと考えるのが適切です。
アストライアーはなぜ人間を見捨てたのですか?
人間が争いや暴力に染まり、正義を守らなくなったためです。
アラトスでは青銅の種族の時代、オウィディウスでは鉄の時代に地上を去るため、細部は文献によって異なります。
アストライアーは本当におとめ座になったのですか?
神話では、地上を去った正義の乙女が、おとめ座になったと語られます。
これは星座の由来を説明する伝承であり、歴史的な出来事ではありません。
また、おとめ座を別の女神や人物と結び付ける神話も残っています。
アストライアーは再び地上へ戻るのですか?
ウェルギリウスの『牧歌』第4歌では、乙女の帰還と黄金時代の再来が歌われています。
未来を予言した史実ではなく、平和と秩序の回復を表す詩的な表現です。
まとめ
アストライアーは、「星のような者」や「星乙女」と解釈される名前を持ち、正義とおとめ座に結び付けられた女神です。
アラトスの『ファイノメナ』では、正義の乙女ディケーが黄金時代に人間と暮らし、人々の堕落によって天へ去る物語が描かれました。
オウィディウスの『変身物語』になると、その乙女はアストライアーと呼ばれ、最後まで地上に残った神として語られます。
系譜や地上を去る時代には複数の伝承があり、おとめ座にも別の由来が伝わっています。
それでも、地上から失われた正義が星として輝き続けるという中心的なイメージは共通しています。
さらに、後世には黄金時代の再来や理想的な統治を象徴する存在へ変化しました。
アストライアーの神話は、人間が正義を失う物語であると同時に、いつか正義が戻ることへの希望を夜空に託した物語でもあります。
参考にした公式・関連資料
- Perseus Digital Library「P. Ovidius Naso, Metamorphoses, Book 1(オウィディウス『変身物語』第1巻、仮訳)」
https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.02.0028%3Abook%3D1 - Theoi Classical Texts Library「Aratus, Phaenomena(アラトス『ファイノメナ/天象詩』、仮訳)」
https://www.theoi.com/Text/AratusPhaenomena.html - The Latin Library「Hyginus, De Astronomia, Liber II(ヒュギヌス『天文学』第2巻、仮訳)」
https://www.thelatinlibrary.com/hyginus/hyginus2.shtml - Perseus Digital Library「P. Vergilius Maro, Eclogues, Eclogue IV(ウェルギリウス『牧歌』第4歌、仮訳)」
https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.02.0057%3Apoem%3D4 - Cambridge Core「The Female Voice of Justice in Aratus’ Phaenomena(アラトス『ファイノメナ』における正義の女性の声、仮訳)」
https://www.cambridge.org/core/journals/greece-and-rome/article/abs/female-voice-of-justice-in-aratus-phaenomena/E826BA5BB395083CF1E1C36BDE04CAD1 - The Metropolitan Museum of Art「Jupiter and Astraea(ユピテルとアストライアー、仮訳)」
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/359451 - Royal Collection Trust「Queen Elizabeth I (1533–1603)(エリザベス1世、1533~1603年、仮訳)」
https://www.rct.uk/collection/exhibitions/treasures-from-the-royal-collection-mythology-and-regency/the-queens-gallery/queen-elizabeth-i-1533-1603

