栃木県大田原市の下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)は、古墳時代前期に築かれた大型の前方後方墳です。
整った墳丘と松に包まれた景観から「日本一美しい古墳」と紹介されることがあり、徳川光圀の命によって江戸時代に発掘された古墳としても知られています。
さらに、2024年度と2025年度の発掘調査では、墳丘の段構造や葺石の範囲、円筒埴輪の存在などが確認されました。
ここでは、下侍塚古墳の規模と特徴、徳川光圀による調査、近年の発掘成果、被葬者をめぐる見解、見学情報を分かりやすく紹介します。
下侍塚古墳とは
栃木県大田原市に残る大型の前方後方墳
下侍塚古墳は、栃木県大田原市湯津上の那珂川右岸に広がる段丘上にあります。
上侍塚古墳の北約800メートルに位置し、2基を合わせた「侍塚古墳」として1951年6月9日に国の史跡へ指定されました。
墳形は前方後方墳です。
前方後方墳とは、平面から見た前方部と後方部がどちらも四角形に造られた古墳を指します。
前方部が丸みのある後円部につながる前方後円墳とは、後方部の形が異なります。
那須地方では古墳時代前期に前方後方墳が続いて築かれており、下侍塚古墳は地域の古墳文化を考えるうえで重要な存在です。
墳丘の全長は84メートル
大田原市が示している下侍塚古墳の規模は、次のとおりです。
- 墳丘全長:84.0メートル
- 後方部の長さ:48.0メートル
- 後方部の幅:48.0メートル
- 後方部の高さ:9.4メートル
- 前方部の長さ:36.0メートル
- 前方部の幅:36.0メートル
- 前方部の高さ:5.0メートル
前方部はおおむね南南西へ向いています。
那須地方では、全長114メートルの上侍塚古墳に次ぐ大きさです。
ただし、文化庁の史跡指定時の解説には全長約76メートルと記載されています。
これは古い測量成果に基づく数値であり、現在は大田原市が公表している全長84メートルが一般に用いられています。
築造時期は古墳時代前期
栃木県埋蔵文化財センターは、下侍塚古墳を約1650年前の古墳時代前期に位置づけています。
より詳しい年代については研究資料によって幅がありますが、上侍塚古墳より先に築かれたと考えられています。
そのため、下侍塚古墳から上侍塚古墳へと続く大型古墳の築造は、4世紀の那須地方で有力者の勢力が成長していった過程を示す可能性があります。
ただし、両古墳の被葬者や具体的な継承関係は判明していません。
下侍塚古墳の構造と特徴
後方部は3段に築かれていた
2025年度の調査では、後方部が3段に築かれていたことが確認されました。
段と段の間には平坦面が設けられ、その間の斜面には葺石が施されていました。
葺石とは、墳丘の表面を覆うように並べた石のことです。
土の流出を抑える働きがあったと考えられるほか、古墳を外から見たときに際立たせる役割もありました。
近年の調査では、葺石が平坦面を除く墳丘斜面の広い範囲に施されていたことが分かっています。
現在の下侍塚古墳は草と松に覆われていますが、築造当時は石の斜面が目立つ、現在とは異なる姿だったと考えられます。
墳丘の周囲には周溝が巡る
下侍塚古墳の周囲には、周溝と呼ばれる堀の跡があります。
地表では、墳丘を囲む一段低い部分として確認できます。
1975年の発掘調査では周溝の形や墳丘裾が調べられ、2024年度と2025年度の調査でも周溝と葺石のつながりが確認されました。
航空レーザー測量でも、墳丘を取り巻く低い部分が立体的に捉えられています。
周溝は古墳の範囲を区切るだけでなく、墳丘をより大きく見せる効果もあったと考えられます。
円筒埴輪の発見が従来の理解を更新した
2024年度の調査では、後方部北側の墳丘裾から円筒埴輪の破片が見つかりました。
確認された破片には赤い顔料が残り、三角形とみられる透かし孔の一部もありました。
透かし孔とは、円筒埴輪の胴部に開けられた穴です。
栃木県の公式発表では、県内の前方後方墳から埴輪が確認された初めての例とされています。
この発見は、下侍塚古墳で埴輪がどのように使われたのかを考える新たな手がかりになりました。
ただし、埴輪が墳丘のどこに、どのような間隔で並べられていたのかは、まだ詳しく分かっていません。
徳川光圀が命じた江戸時代の発掘調査
調査のきっかけは那須国造碑だった
侍塚古墳が発掘されるきっかけとなったのは、現在の笠石神社にまつられている那須国造碑です。
那須国造碑は、7世紀末ごろに亡くなった那須直韋提(なすのあたいいで)の功績をたたえるため、700年ごろに建てられたと考えられている石碑です。
江戸時代に碑の存在を知った徳川光圀は、碑に記された人物の墓を明らかにしようとしました。
そこで、碑の近くにあった大きな墳墓である上侍塚古墳と下侍塚古墳を調べることになったのです。
現在では両古墳が4世紀に築かれ、那須国造碑より数百年古いことが分かっています。
そのため、下侍塚古墳を那須直韋提の墓とみなすことはできません。
佐々宗淳と大金重貞が調査に関わった
元禄5年(1692)、徳川光圀の命を受けた佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)と、地元の名主であった大金重貞(おおがねしげさだ)らが調査を進めました。
佐々宗淳は、後世のテレビドラマなどに登場する「助さん」のモデルの一人として知られる人物です。
大金重貞がまとめた『湯津神村車塚御修理』には、発掘の経過や出土品、修復の方法が記録されています。
当時は現代のような考古学の調査方法が確立されていませんでした。
それでも、出土状況を記録し、遺物を絵師に描かせた点は、近世の調査として注目されています。
鏡や大刀などが記録に残る
江戸時代の記録や後世にまとめられた絵図には、下侍塚古墳から鏡、大刀、高坏、壺、甲冑の板とみられる鉄製品などが出土したことが記されています。
高坏は、食物などを盛る皿に高い脚が付いた土器です。
これらは被葬者の地位や葬送儀礼を考える手がかりになります。
しかし、被葬者の名前を示す墓誌などは発見されませんでした。
また、出土品の種類や数は複数の記録を照合して検討する必要があり、すべてを現代の分類へ正確に置き換えられるわけではありません。
出土品を埋め戻し、墳丘に松を植えた
徳川光圀は、出土品を記録した後、松板の箱に収めて元の場所へ埋め戻すよう命じました。
発掘で傷んだ墳丘も修復され、盛土の崩落を防ぐために松が植えられたと伝わります。
後方部の墳頂には、江戸時代の発掘跡とされるくぼみが現在も残っています。
発掘だけで終わらず、記録、埋め戻し、修復、植樹まで行った姿勢は、文化財を後世へ残す考え方につながるものです。
このため侍塚古墳の調査は、日本最初期の学術的な発掘調査として考古学史上重要視されています。
1975年と2024・2025年度の発掘調査
1975年に周溝と葺石を確認
1975年には、土地改良事業に伴って当時の湯津上村教育委員会が下侍塚古墳の周辺を調査しました。
この調査により、周溝の形状や墳丘裾の葺石が確認され、土師器の壺なども出土しました。
土師器とは、弥生土器の流れを引く素焼きの土器です。
この成果によって、地表観察だけでは分からなかった古墳の範囲と外部構造が具体的になりました。
航空レーザー測量で墳丘の形を記録
栃木県は2021年度から「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」を進め、上侍塚古墳と下侍塚古墳を調査しました。
航空レーザー測量では、上空からレーザーを照射して地表の高低を測り、墳丘と周辺地形を三次元で記録しています。
その結果、下侍塚古墳の後方部墳頂のくぼみや周溝、北東側に集まる小古墳の位置が鮮明になりました。
2024・2025年度の調査で古墳像が明確になった
下侍塚古墳では、2024年度と2025年度に墳丘部分と周溝部分の発掘調査が行われました。
主な成果は、後方部が3段に築かれていたこと、墳丘斜面に広く葺石が施されていたこと、墳丘裾と周溝の位置、円筒埴輪の存在が確認されたことです。
一方、被葬者の名前や埋葬施設の全体像、埴輪の詳しい配置などは確定していません。
2021年度から2025年度までの現地調査は終了していますが、2026年8月時点では成果の整理と検討が続いています。
今後公表される報告によって、築造年代や墳丘の復元像がさらに詳しくなる可能性があります。
下侍塚古墳の被葬者は誰なのか
那須地方を治めた有力者の墓と考えられる
全長84メートルの墳丘を築き、斜面を葺石で覆うには、多くの人員と資材が必要です。
この規模から、下侍塚古墳の被葬者は4世紀の那須地方で強い影響力を持った首長だったと考えられています。
ただし、古墳から被葬者名を記した資料は見つかっていません。
後世に知られる那須国造の一族と直接結び付ける証拠もないため、特定の人物名を挙げることはできません。
上侍塚古墳より先に造られた可能性が高い
大田原市は、下侍塚古墳が上侍塚古墳に先立って築かれたと説明しています。
下侍塚古墳は全長84メートル、上侍塚古墳は全長114メートルです。
近い場所に大型の前方後方墳が続いて造られたことから、地域の有力者集団が世代を越えて力を保ち、より大きな古墳を築くようになった可能性があります。
ただし、2基が親子や同じ一族の墓であると確認されたわけではありません。
下侍塚古墳が持つ歴史的な価値
古墳時代前期の那須地方を伝える
下侍塚古墳は、古墳時代前期の那須地方に大きな政治的まとまりが存在したことを示す遺跡です。
周辺には上侍塚古墳や上侍塚北古墳があり、下侍塚古墳の北側には8基からなる侍塚古墳群も残されています。
これらを一つの古墳景観として見ると、那珂川流域で首長墓が築かれていった歴史をたどれます。
日本の考古学と文化財保護の歩みを伝える
下侍塚古墳には、古墳時代の遺跡という価値に加え、江戸時代の人々が古代の墓をどのように調べ、守ろうとしたのかを伝える価値があります。
徳川光圀の命による調査では、目的と経過を文章に残し、出土品を図に描き、調査後に古墳を修復しました。
現代の発掘調査とは方法が異なるものの、記録と保存を重視した先駆的な取り組みです。
約330年を隔てて新たな調査が行われたことで、江戸時代の記録と現代の考古学的成果を照らし合わせられる点も、下侍塚古墳ならではの魅力です。
下侍塚古墳の見学情報
所在地・料金・アクセス
- 名称:下侍塚古墳
- 史跡名称:侍塚古墳(上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基)
- 所在地:栃木県大田原市湯津上
- 郵便番号:324-0403
- 位置:国道294号沿い、大田原市なす風土記の丘湯津上資料館の向かい側
- 見学:可能
- 料金:無料
- 予約:不要
- 駐車場:あり。下侍塚古墳西側駐車場の所在地は大田原市湯津上154-1
- トイレ:あり
- 車でのアクセス:JR宇都宮線西那須野駅から約35分
- 車でのアクセス:東北自動車道西那須野塩原インターチェンジから約40分
- 問い合わせ:大田原市文化振興課文化財係
屋外の史跡について、公式案内には固定の見学時間や休業日の記載がありません。
安全に墳丘の形を観察できる明るい時間帯の訪問が適しています。
発掘調査、保存作業、周辺道路の状況によって見学方法が変わる可能性があるため、遠方から訪れる場合は大田原市の最新情報を確認してください。
なす風土記の丘湯津上資料館にも立ち寄れる
下侍塚古墳の南向かいには、大田原市なす風土記の丘湯津上資料館があります。
館内では、那須国造碑が建立された時代背景や、徳川光圀による侍塚古墳調査の業績、大田原市内の遺跡と出土品を紹介しています。
- 所在地:栃木県大田原市湯津上192
- 開館時間:午前9時30分から午後5時まで
- 最終入館:午後4時30分
- 休館日:月曜日。月曜日が祝日の場合は次の平日
- 休館日:年末年始、展示替え期間、資料の殺虫・殺カビ期間など
- 入館料:一般100円、高校・大学生50円、中学生以下無料
休館日は年度ごとに変わることがあるため、訪問前に資料館の公式ページを確認してください。
見どころは墳丘の輪郭と松の景観
下侍塚古墳は、国道294号側から前方部と後方部の高低差を捉えやすい古墳です。
後方部の高まり、前方部へ続くくびれ、周囲の低い周溝に注目すると、前方後方墳の形を立体的に理解できます。
墳丘を覆う松は江戸時代の保存事業に始まると伝わり、現在の景観そのものが文化財保護の歴史を物語っています。
見学時は現地の案内表示に従い、立入禁止区域や調査区画へ入らないようにしてください。
墳丘の土や葺石、植物を動かしたり持ち帰ったりせず、史跡を傷めない見学を心がけることも大切です。
下侍塚古墳に関するFAQ
「日本一美しい古墳」は公式な順位ですか?
公的な審査によって決められた順位ではありません。
整った墳丘が良好に残り、松に覆われた景観が美しいことから広まった呼び名です。
栃木県や大田原市の観光・文化財案内でも、この呼称が紹介されています。
徳川光圀本人が下侍塚古墳を掘ったのですか?
徳川光圀は調査を命じた人物であり、現地の実務には佐々宗淳や大金重貞らが関わりました。
そのため、「徳川光圀が発掘した」という表現は、光圀の命令と事業として行われたという意味で使われています。
江戸時代に出土した遺物の現物は見られますか?
江戸時代の調査で出土した品々は、図に記録された後、松板の箱に納めて古墳へ埋め戻されたと伝わります。
現物を通常の博物館展示として見ることはできませんが、出土品を描いた絵図や調査記録が残されています。
大田原市なす風土記の丘湯津上資料館では、徳川光圀による調査の業績や関連資料を通して侍塚古墳の歴史を学べます。
上侍塚古墳や那須国造碑も一緒に見学できますか?
上侍塚古墳は下侍塚古墳の南約800メートルにあり、那須国造碑をまつる笠石神社も周辺にあります。
なす風土記の丘湯津上資料館を起点にすると、侍塚古墳と那須国造碑の関係を理解しながら巡れます。
神社の拝観や資料館の見学条件は別に定められているため、それぞれの最新案内を確認してください。
まとめ
下侍塚古墳は古代那須と考古学史をつなぐ史跡
下侍塚古墳は、栃木県大田原市湯津上にある全長84メートルの前方後方墳です。
古墳時代前期に築かれ、上侍塚古墳より先に造られたと考えられていますが、被葬者の名前や両古墳の具体的な関係は分かっていません。
近年の調査では、後方部の3段構造、広い範囲の葺石、周溝、円筒埴輪が確認されました。
特に円筒埴輪の発見は、那須地方の前方後方墳で行われた葬送儀礼を見直す重要な成果です。
また、1692年の調査で記録と保存が重視されたことから、日本最初期の学術的な発掘調査としても高く評価されています。
古墳時代の首長墓と江戸時代の文化財保護、その両方の歴史を一つの場所で感じられることが、下侍塚古墳の大きな魅力です。

