上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)は、栃木県大田原市湯津上にある古墳時代前期の大型古墳です。
前方部と後方部がともに四角い「前方後方墳」で、墳丘の全長は114メートルに達します。
古代那須地域の有力者を葬った墓と考えられていますが、被葬者の名前は分かっていません。
上侍塚古墳は、元禄5年(1692)に徳川光圀の命による発掘調査が行われたことでも知られています。
出土品を記録して埋め戻し、墳丘を修復した一連の作業は、日本における考古学的調査と文化財保護の先駆けとして評価されてきました。
さらに、2021年度から2024年度には約330年ぶりとなる本格的な調査が実施され、墳丘の構造や江戸時代の修復方法が少しずつ明らかになっています。
ここでは、上侍塚古墳の規模や形、徳川光圀が調査した理由、近年の発掘成果、被葬者をめぐる見解、見学情報を紹介します。
上侍塚古墳の基本情報
栃木県大田原市に残る国指定史跡
上侍塚古墳は、那珂川右岸の段丘上に築かれています。
北へ約800メートル離れた下侍塚古墳と合わせて、国指定史跡「侍塚古墳」を構成しています。
両古墳が国の史跡に指定されたのは、昭和26年(1951)6月9日です。
上侍塚古墳は南側、下侍塚古墳は北側に位置しています。
「侍塚古墳」という名称が2基の総称であるため、上侍塚古墳だけを調べるときは、下侍塚古墳やその北側の侍塚古墳群と区別する必要があります。
全長114メートルの前方後方墳
上侍塚古墳の墳丘は、前方部を南へ向けた前方後方墳です。
前方後方墳とは、平面から見たときに前方部と後方部がともに四角く見える古墳を指します。
大田原市が公表している規模は、次の通りです。
- 墳丘全長:114.0メートル
- 後方部の長さ:60.5メートル
- 後方部の幅:58.0メートル
- 後方部の高さ:11.5メートル
- 前方部の長さ:53.5メートル
- 前方部の幅:52.0メートル
- 前方部の高さ:6.5メートル
栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次ぐ2番目の大きさとされています。
那須地域では最大の古墳であり、墳丘だけでなく周囲の溝まで含めると、非常に大規模な墓域が設けられていました。
上侍塚古墳が築かれた時代
4世紀に築造された古墳
上侍塚古墳は、古墳時代前期にあたる4世紀に築かれたと考えられています。
より細かな年代については、公的な案内にも「4世紀前半」「4世紀後半頃」「西暦400年をさかのぼる時期」などの違いがあります。
また、上侍塚古墳と下侍塚古墳のどちらが先に築かれたかについても、公式資料の説明が一致していません。
2025年度まで続いた侍塚古墳の発掘調査では新たな資料が得られており、2026年度には調査成果を振り返るシンポジウムも計画されています。
そのため、現段階では「4世紀に築かれた古墳時代前期の前方後方墳」と捉え、詳しい年代や築造順については今後の研究成果を待つのが適切です。
那珂川流域に大型古墳が築かれた背景
上侍塚古墳の周辺では、駒形大塚古墳、下侍塚古墳、那須八幡塚古墳など、古墳時代前期の大型前方後方墳が確認されています。
この地域は那珂川と箒川に近く、水上交通を利用して人や物が行き来しやすい場所でした。
関東地方と東北地方を結ぶ位置にあることから、政治的にも交通上も重要な地域だったと考えられています。
大型古墳の存在は、那珂川中流域に広い範囲をまとめる有力者がいたことを示しています。
一方で、古墳の形や副葬品に広域的なつながりが見られるからといって、ヤマト王権がこの地域を直接支配していたとまでは断定できません。
上侍塚古墳は、中央との交流を持ちながら独自の力を蓄えた古代那須の首長像を考えるうえで重要な遺跡です。
上侍塚古墳の構造と特徴
後方部は三段、前方部は二段に築かれた可能性
現在の上侍塚古墳は、斜面が滑らかに続く整った姿に見えます。
しかし、近年の地中レーダー探査と発掘調査によって、築造当初は階段状の構造だった可能性が高まりました。
後方部の斜面を調べた結果、後方部は三段に築かれていたことが確認されています。
地中レーダー探査でも、前方部は二段、後方部は三段に築かれた可能性を示す反応が得られました。
現在の滑らかな外観は、古墳時代の形がそのまま残ったものではなく、元禄5年の発掘後に行われた盛土と整形の影響を受けていると考えられます。
墳丘を覆っていた葺石
上侍塚古墳では、墳丘の斜面を石で覆う葺石(ふきいし)が確認されています。
葺石には墳丘を立派に見せる役割と、盛土が崩れるのを抑える役割があったと考えられています。
近年の調査では、墳丘全体へ同じように石を並べたのではなく、場所によって葺石の範囲を変えていたことが分かりました。
くびれ部や前方部では、最下段の裾に葺石を置かず、削り出した関東ローム層を露出させていたとみられます。
古墳の造営者が、場所ごとの見え方や構造を考えながら石を配置した可能性があります。
赤く塗られた壺形土器と祭祀用の土器
崩れ落ちた葺石の間からは、赤く塗られた壺形土器の破片が多数出土しました。
これらの壺は、もともと墳丘上に並べられていたと考えられています。
くびれ部では、赤い壺形土器のほか、小型の土器や一般的な壺形土器も見つかりました。
出土状況から、一部の土器は古墳で行われた祭りの際に意図的に割られた可能性が指摘されています。
ただし、具体的にどのような儀礼が行われたのかは分かっていません。
西側で深く掘られた周溝
周溝(しゅうこう)とは、古墳の周囲に設けられた溝です。
上侍塚古墳の北側と西側では、周溝が明確に確認されています。
西側の周溝は幅約20メートル、最も深い場所で約2メートルあり、後方部の西側が特に深く掘られていました。
一方、東側では一般的な溝状の周溝が確認されず、地面を硬い砂礫層まで広く掘り下げて整えたと考えられています。
四方に同じ溝を巡らせるのではなく、もとの地形に合わせて墓域を形づくった可能性があります。
徳川光圀が命じた元禄5年の発掘調査
発掘のきっかけは那須国造碑
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)は、現在の大田原市湯津上に残る古代の石碑です。
碑文には、那須直韋提(なすのあたいいで)が西暦700年に亡くなり、後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが故人をしのんで碑を建てたことなどが記されています。
江戸時代に那須国造碑の存在を知った徳川光圀は、碑文に記された人物の墓を探そうとしました。
その候補と考えられたのが、上侍塚古墳と下侍塚古墳です。
元禄5年(1692)、光圀の命を受けた佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)と、庄屋の大金重貞(おおがねしげさだ)らが調査に関わりました。
出土品を記録して再び埋めた
上侍塚古墳の後方部墳頂を掘った調査では、捩文鏡(ねじもんきょう)1面、石釧(いしくしろ)1点、管玉2点、鉄鏃18点、鉄斧1点、甲冑の破片5点などが出土したと記録されています。
石釧は石で作られた腕輪形の品、管玉は細長い筒形の玉です。
これらは、被葬者の地位や広域的な交流を考えるうえで重要な副葬品です。
しかし、被葬者の名前を示す墓誌は見つかりませんでした。
調査者は出土品を画工に描かせ、種類や位置を記録しました。
その後、出土品を松板製の箱へ納め、発掘の経緯を書いた文書とともに古墳内へ埋め戻したと伝えられています。
発掘後に墳丘を修復した
徳川光圀は、発掘後の墳丘を放置しませんでした。
掘った場所を埋め戻して形を整え、盛土の崩落を防ぐために松を植えさせたとされています。
後方部墳頂に残るくぼみや、墳丘表面を覆う盛土の一部は、このときの調査と修復に関係するものです。
出土品を記録し、遺跡へ戻し、墳丘を修理して後世へ残そうとした姿勢から、侍塚古墳の調査は「日本最初の学術的な発掘調査」と呼ばれています。
現代と同じ調査方法ではありませんが、目的を定め、経過と遺物を記録し、調査後の保存まで考えた点に大きな歴史的価値があります。
約330年ぶりに行われた発掘調査
航空レーザーと地中レーダーを活用
栃木県は、2021年度から「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」として侍塚古墳の調査を進めました。
上侍塚古墳では、2021年度から2024年度にかけて、元禄5年の発掘以来約330年ぶりとなる調査が行われています。
調査には、航空レーザー測量、地中レーダー探査、電磁探査、細長い調査区を掘るトレンチ調査などが用いられました。
地面を広範囲に掘り返すのではなく、非破壊調査と限定的な発掘を組み合わせ、国指定史跡への影響を抑えながら構造を確かめています。
江戸時代の修復方法が見えてきた
後方部墳頂を部分的に調べたところ、古墳時代の盛土とは別に、元禄5年の調査と埋め戻しに関係する土が確認されました。
調査成果から、江戸時代の発掘では墳頂を平らに削った後、東側を大きく掘り下げたと考えられています。
発掘孔を埋めた後には新たな土を盛り、墳丘を整え直していました。
周溝の上部から江戸時代の陶磁器片が見つかり、土を鋤などで掘った痕跡も残っていました。
墳丘の修復に必要な土を、古墳の周溝から採取した可能性が指摘されています。
埋め戻された副葬品の箱は確認されていない
地中レーダー探査では、上侍塚古墳の墳頂部に深さ約1.5~4メートルの掘り込みがあることが分かりました。
これは、元禄5年の発掘や埋め戻しと関係する可能性があります。
一方、電磁探査では、埋め戻されたと伝わる鏡や鉄製品を示す明確な反応は確認されませんでした。
箱が記録とは異なる場所にあるのか、探査が届かない深さにあるのか、金属製品が反応しにくい状態になっているのかは分かっていません。
副葬品の箱が現在も残っているかどうかは、上侍塚古墳に残された謎の一つです。
古墳南側で見つかった竪穴住居
古墳の南側では、古墳時代前期の竪穴住居跡も確認されました。
住居内には炭や焼土が残っており、火災で焼けた住居と考えられています。
古墳に隣接し、時期も近いことから、古墳の築造や祭祀に関係した人々の住居だった可能性があります。
ただし、古墳との直接的な関係を示す証拠はまだ確認されていません。
上侍塚古墳の被葬者は誰なのか
被葬者の名前は分かっていない
上侍塚古墳では、被葬者の名前を記した墓誌や文字資料は確認されていません。
墳丘の大きさや副葬品から、4世紀の那珂川中流域を支配した有力者の墓と考えられています。
しかし、具体的な人物名や氏族名を特定できる資料はなく、「那須地域の有力な首長」とする以上のことは分かっていません。
那須直韋提の墓ではない
元禄5年の調査では、上侍塚古墳か下侍塚古墳が那須直韋提の墓ではないかと考えられていました。
現在では、上侍塚古墳が築かれた4世紀と、那須直韋提が亡くなった西暦700年の間に約300年の差があることが分かっています。
そのため、上侍塚古墳を那須直韋提の墓とみなす説は、年代上成立しません。
一方、約300年の隔たりがあっても、上侍塚古墳と那須国造碑が同じ那須地域の支配層の歴史を伝える重要資料であることは変わりません。
古墳時代から飛鳥時代へと、地域社会がどのように変化したのかを考える手掛かりになります。
上侍塚古墳の歴史的価値
古代那須の政治的な力を伝える
114メートルという墳丘の大きさは、古墳を築いた集団が多くの人手と資材を動員できたことを示します。
葺石、赤彩された壺形土器、副葬品の組み合わせからは、地域の伝統だけでなく、関東各地や中央との交流も読み取れます。
上侍塚古墳は、古墳時代前期の東日本で、那須地域がどのような位置を占めていたのかを考えるうえで欠かせない遺跡です。
日本の考古学史と文化財保護を伝える
上侍塚古墳には、4世紀の古墳としての価値に加え、17世紀の調査と保存の歴史が重なっています。
徳川光圀の命による調査は、被葬者を明らかにするという目的を持ち、出土品と調査の経過を記録しました。
さらに、出土品を埋め戻して墳丘を修復し、松を植えて保護した点も重要です。
近年の調査では、江戸時代の人々がどのように古墳を掘り、どのように直したのかまで研究対象になっています。
一つの古墳から、古墳時代の社会と江戸時代の歴史意識の両方を学べることが、上侍塚古墳の大きな魅力です。
上侍塚古墳の見学情報
上侍塚古墳を見学するときの基本情報
- 名称:上侍塚古墳
- 読み方:かみさむらいづかこふん
- 所在地:栃木県大田原市湯津上
- 文化財指定:国指定史跡「侍塚古墳」の一部
- アクセス:栃木県の案内では、JR那須塩原駅から自動車で約30分、西那須野塩原インターチェンジから自動車で約30分
- 見学料金:無料
- 事前予約:不要
- 見学時間:屋外史跡のため、公式の固定見学時間は案内されていません
- 休場日:公式の設定は確認できません
- 特徴:全長114メートルの前方後方墳、松に覆われた墳丘、徳川光圀による発掘と修復の痕跡
- 問い合わせ先:大田原市文化振興課文化財係
上侍塚古墳の専用駐車場や進入経路については、公式ページ上で詳しい案内が確認できません。
周辺では発掘調査や史跡整備に伴う立入規制が行われることもあるため、車で訪れる場合は大田原市文化振興課や、なす風土記の丘湯津上資料館へ事前に確認すると安心です。
墳丘や周囲の地面は滑りやすい場合があります。
現地の柵や案内表示に従い、遺構を傷つけたり、石や土器片のように見えるものを持ち帰ったりしないでください。
見どころは墳丘の高さと松の木立
現地では、後方部の高さが11.5メートルに達する大きな墳丘を間近に感じられます。
樹木に覆われているため平面形を一度に見渡すことは難しいものの、前方部からくびれ部、後方部へ続く地形を意識して歩くと、前方後方墳の形が分かりやすくなります。
墳丘上の松は、徳川光圀が発掘後の崩落を防ぐために植えさせたことに始まると伝えられています。
現在見える滑らかな斜面の下に、葺石を備えた段築や江戸時代の盛土が隠れていることを知ってから見学すると、古墳の見え方も変わります。
なす風土記の丘湯津上資料館にも立ち寄る
- 名称:大田原市なす風土記の丘湯津上資料館
- 所在地:栃木県大田原市湯津上192
- 開館時間:午前9時30分から午後5時まで
- 入館時間:午後4時30分まで
- 休館日:月曜日、月曜日が祝日の場合は次の平日、年末年始、展示替えなどによる臨時休館日
- 入館料:一般100円、高校・大学生50円、中学生以下無料
- 特徴:那須国造碑の建立と発見、徳川光圀による侍塚古墳の調査、古代那須の歴史を紹介
資料館は下侍塚古墳の南向かいにあり、上侍塚古墳と下侍塚古墳をまとめて理解するのに適した施設です。
休館日や料金は変更される可能性があるため、訪問前に大田原市の公式ページで最新情報を確認してください。
上侍塚古墳に関するFAQ
上侍塚古墳と上侍塚北古墳は同じ古墳ですか?
同じ古墳ではありません。
上侍塚北古墳は、上侍塚古墳の北側にある別の前方後方墳です。
上侍塚古墳が全長114メートルであるのに対し、上侍塚北古墳は全長48.5メートルほどとされています。
名称が似ていますが、国指定史跡「侍塚古墳」を構成するのは上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基です。
元禄5年に出土した副葬品を見ることはできますか?
元禄5年の調査で見つかった上侍塚古墳の副葬品は、図を作成した後、松板の箱に入れて古墳へ埋め戻されたと記録されています。
そのため、出土した実物を通常の博物館展示として見ることはできません。
栃木県埋蔵文化財センターの公式サイトでは、『那須記』などに掲載された出土品の絵図が紹介されています。
なす風土記の丘湯津上資料館でも、侍塚古墳の調査や那須国造碑に関する展示を見学できますが、展示内容は時期によって変わる可能性があります。
なぜ上侍塚古墳の現在の姿を築造当初の形と断定できないのですか?
元禄5年の発掘後に、墳丘へ新たな土を盛って形を整えたことが文献と近年の発掘調査から確認されているためです。
現在の滑らかな斜面の下には、古墳時代の段築や葺石が埋まっています。
上侍塚古墳の外観には、4世紀の築造と17世紀の修復という異なる時代の姿が重なっています。
まとめ
上侍塚古墳は、栃木県大田原市湯津上にある全長114メートルの前方後方墳です。
4世紀に築かれた古墳時代前期の大型古墳で、那珂川中流域を治めた有力者の墓と考えられていますが、被葬者の名前は分かっていません。
元禄5年には徳川光圀の命による調査が行われ、鏡や装身具、武器などが記録された後、古墳へ埋め戻されました。
発掘後に墳丘を修復して松を植えた取り組みは、日本の考古学と文化財保護の先駆けとして評価されています。
約330年ぶりの調査では、後方部の三段構造、葺石、赤く塗られた壺形土器、周溝、江戸時代の盛土などが確認されました。
一方、詳しい築造年代、下侍塚古墳との築造順、埋め戻された副葬品の所在には、なお検討すべき点が残されています。
上侍塚古墳は、古代那須の政治的な力だけでなく、江戸時代の人々が古墳を調べ、守ろうとした歴史まで伝える貴重な遺跡です。
主な出典元
- 大田原市「国指定史跡 侍塚古墳」
https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082767660/ - 栃木県埋蔵文化財センター「那須 上侍塚古墳・下侍塚古墳」
https://tochigimaibun.jp/156 - とちぎいにしえの回廊「侍塚古墳とは」
https://inishie.tochigi.jp/discover-samuraiduka.html - 栃木県「とちぎの文化資源 音声ガイド 侍塚古墳」
https://www.digitalmuseum.pref.tochigi.lg.jp/exh3/search?no=216 - とちぎの文化財「侍塚古墳」
https://bunkazai.pref.tochigi.lg.jp/cultural/%E3%80%90%E4%BE%8D%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%91/ - 文化遺産オンライン「侍塚古墳」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215989 - とちぎ旅ネット「日本考古学発祥の地~水戸光圀の残した遺産 侍塚古墳~」
https://www.tochigiji.or.jp/features/samuraidukakohun - 大田原市「那須国造碑 国宝(古文書)」
https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082778383/ - 大田原市「大田原市なす風土記の丘湯津上資料館」
https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082772084/


