インド西部の乾燥地帯に、約5000年前から発展した計画都市が残されています。
その都市遺跡が、インダス文明を代表するドーラビーラ遺跡です。
城壁に囲まれた複数の市街区、大規模な貯水施設、石を多用した建築、そして巨大なインダス文字の標識などが発掘されています。
一方で、誰が都市を統治していたのか、巨大な文字列が何を意味するのか、なぜ都市が衰退したのかについては、まだ結論が出ていません。
ここでは、ドーラビーラ遺跡の歴史と都市構造、高度な水利システム、世界遺産としての価値、現在も残る謎を分かりやすく紹介します。
ドーラビーラ遺跡とは
インダス文明南部の重要都市
ドーラビーラ遺跡は、インドのグジャラート州カッチ県にあるインダス文明の都市遺跡です。
カッチ大湿地の中に浮かぶように位置するカディール島にあり、現在のドーラビーラ村から約1キロメートル離れています。
現地では「コタダ・ティンバ」とも呼ばれます。
コタダは、大きな砦を意味する言葉です。
UNESCOによると、遺跡ではおよそ紀元前3000年から紀元前1500年まで、人々が居住した痕跡が確認されています。
インダス文明の初期、成熟期、後期にまたがる長い変化を追えることが、ドーラビーラ遺跡の大きな特徴です。
遺跡の規模と登録範囲
城壁に囲まれた都市域は、カッチ県の公式案内で約47ヘクタールとされています。
一方、都市の西側に広がる墓地などを含めた世界遺産の登録範囲は103ヘクタールです。
資料によって規模が異なって見えるのは、都市だけを示す場合と、墓地を含む世界遺産の範囲を示す場合があるためです。
発見と発掘の歴史
1967~1968年に遺跡として確認された
ドーラビーラ遺跡は、インド考古局の考古学者J・P・ジョシによって1967~1968年に遺跡として確認されました。
UNESCOの資料では、発見年を1968年としています。
広範囲にわたる本格的な発掘は、インド考古局によって1989年から2005年までの13回の調査シーズンに行われました。
発掘と並行して遺構の保存処置が進められたため、城壁や門、貯水池、道路、住居、工房などの配置が現地で確認できます。
地中には未調査の遺構も残る
ドーラビーラでは広い範囲が発掘されていますが、都市全体が完全に掘り尽くされたわけではありません。
地中レーダー探査では、まだ地表に現れていない直線状の構造などが確認されています。
今後も非破壊調査を活用することで、都市の構造がさらに明らかになる可能性があります。
ドーラビーラ遺跡の都市構造
複数の区画に分けられた計画都市
ドーラビーラの市街地は、単純に一つの城壁で囲まれていただけではありません。
南側の高い場所にキャッスルと呼ばれる中心区画があり、その西側にベイリーと呼ばれる付属区画が設けられていました。
その北には儀礼広場、さらに北には城壁で囲まれた中町があり、東側には下町が広がっていました。
外周の城壁に加えて、中心区画や中町にも個別の防御壁があり、多重の区画構成になっています。
道路は一定の方向にそろえられ、街区を格子状に分けていました。
道路幅にも段階があり、大通り、支道、路地が計画的に配置されていたことが発掘調査で確認されています。
「キャッスル」は王宮と断定できない
キャッスルという呼び名から、王が暮らした宮殿を想像するかもしれません。
しかし、この名称は遺跡内の中心的な城塞区画を示す考古学上の呼称です。
インダス文字が解読されていないため、ドーラビーラに王がいたのか、どのような統治制度があったのかは分かっていません。
住居や道路、門の規模に違いがあることから、社会に役割や地位の差があった可能性は指摘されています。
ただし、建物の大きさだけで具体的な身分制度まで断定することはできません。
石材を多用した建築
インダス文明の都市といえば、焼成レンガや日干しレンガの建築がよく知られています。
ドーラビーラでは、城壁や建物の基礎、基壇などに石材が広く使われました。
石積みの内部に日干しレンガを組み合わせた構造もあり、周辺で入手できる材料を生かした建築技術がうかがえます。
石材の広範な使用は、ほかの主要なインダス文明都市と比べた際の特徴の一つです。
乾燥地で都市を支えた水利システム
二つの季節河川から水を集めた
ドーラビーラは、年間を通して水が流れる大河のほとりに築かれた都市ではありませんでした。
都市の北にはマンサル川、南にはマンハル川という二つの季節河川がありました。
季節河川とは、雨の多い時期を中心に水が流れ、乾季には水量が大きく減る川のことです。
住民は限られた雨水と河川水を集めるため、ダム、導水路、排水路、井戸、水槽、複数の貯水池を組み合わせました。
城塞内部に降った雨も排水路へ集め、貯水施設へ導く仕組みが設けられていました。
貯水池も都市計画の一部だった
大規模な貯水池は、中心区画の東、南、西などに配置されていました。
水の確保は後から付け足された設備ではなく、城壁や道路と一体になった都市計画の一部だったと考えられます。
乾燥した環境で都市生活を長期間維持できた背景には、水を集め、蓄え、必要な場所へ動かす技術がありました。
ただし、現在見えている水路や貯水池が、約1500年に及ぶ居住期間を通して同じ形で使われ続けたわけではありません。
都市の拡大や修復に伴い、水利施設も段階的に変化しました。
巨大なインダス文字の標識
北門付近から10個の記号が見つかった
ドーラビーラ遺跡を象徴する出土品が、10個の大きな記号を並べた文字列です。
記号は白い石膏を用いて作られ、中心区画の北門にある部屋から発見されました。
発見状況から、もともとは木製の板にはめ込まれ、門の上部など人目につく場所に掲げられていた可能性があります。
小さな印章に刻まれることの多いインダス文字が、大型の表示として見つかった点は特に注目されています。
「世界最古の看板」とは断定できない
この文字列は、しばしば「世界最古の看板」と紹介されます。
しかし、記号が示す言葉も、掲示物の用途も分かっていません。
都市名、役職名、宗教的な文言など、さまざまな解釈を想像できますが、どれも確認された事実ではありません。
インダス文字には多くの解読案が発表されてきましたが、研究者の合意を得た解読法は現在も存在しません。
そのため、「ドーラビーラ」と書かれているなど、特定の読み方を事実として紹介することはできません。
工房と交易から分かる人々の暮らし
ビーズ加工を行う職人がいた
発掘調査では、ビーズを加工した工房と多数のビーズ、細い穴を開けるためのドリルなどが見つかっています。
ほかにも、土器、印章、分銅、銅や金などの金属製品、貝製品、テラコッタ製の像、石製腕輪などが出土しました。
こうした遺物は、ドーラビーラに専門的な技術を持つ職人がいたことを示しています。
規格化された分銅の存在からは、物品の計量や交換を管理する仕組みがあったこともうかがえます。
メソポタミアやオマーン方面とのつながり
UNESCOは、ほかのインダス文明都市だけでなく、メソポタミア地域や現在のオマーン半島との交易を示す証拠が確認されたと評価しています。
カディール島は、銅、貝、カーネリアンなどの原料を入手し、内陸と海上交易圏を結ぶうえで有利な位置にありました。
ただし、出土品の類似や原料の移動は交流の存在を示すものであり、ドーラビーラの人々がどの航路を使い、どこまで直接移動したのかまでは明らかになっていません。
都市の西側に広がる墓地
遺体を納めない記念墓が多い
都市の西側には、50ヘクタールを超える広大な墓地が確認されています。
墓や記念施設は、長方形の記念構造物、石を積んだ塚、複合墓、部分埋葬、土葬、半球形の構造物という6種類に分類されています。
一部を除く多くの施設は、遺体を納めないセノタフでした。
セノタフとは、死者を記念するために造られたものの、遺体そのものを埋葬しない記念墓です。
この特徴は、ドーラビーラの人々が独自の死生観や葬送儀礼を持っていた可能性を示します。
しかし、文字資料を読めないため、どのような信仰に基づいて造られたのかは分かっていません。
約1500年にわたる都市の変化
居住の歴史は7段階に分けられる
発掘成果に基づく編年では、ドーラビーラの居住史は7段階に分けられています。
紀元前3000年頃に始まった初期の集落は、城壁を備えた小規模な中心部から成長しました。
その後、中心区画、ベイリー、中町、貯水池、外周城壁などが整備され、成熟した計画都市へ発展します。
紀元前2500年頃から紀元前2000年頃には、典型的なインダス文明の土器、印章、分銅、ビーズ、金属製品などが豊富に使われました。
都市は一度短期間放棄された後、規模を縮小して再居住されました。
さらに長い空白期間を経た最終段階には、それまでの格子状都市とは異なる円形住居が造られています。
最終段階が終わると、都市が再び継続的に居住された形跡は確認されていません。
衰退の原因は一つに決められない
世界遺産の評価資料では、紀元前2100~2000年頃になると建物の修理が粗くなり、損傷した水利施設も十分に復旧されなくなったと説明されています。
この段階の終わりには地震で都市が被害を受け、短期間放棄されたと考えられています。
一方、貝殻などの同位体と年代測定を用いた研究では、約4200年前の大規模な乾燥化が都市の衰退と重なったという説が示されました。
水資源の減少、地震、都市設備を維持する力の低下、広域的な交易や社会の変化など、複数の要因が重なった可能性があります。
現時点では、干ばつだけ、あるいは地震だけが原因だったと断定することはできません。
世界遺産に登録された理由
2021年にUNESCO世界文化遺産となった
ドーラビーラ遺跡は、2021年7月27日に「Dholavira: a Harappan City」としてUNESCO世界遺産一覧表へ登録されました。
登録基準は、文化遺産の基準(iii)と(iv)です。
基準(iii)では、インダス文明の初期から後期までの社会と都市の変化を伝える、優れた考古学的証拠である点が評価されました。
基準(iv)では、計画的な街区、多重の城壁、高度な貯水・排水設備、石材を活用した建築が、インダス文明の都市計画を示す重要な例とされています。
遺跡が現地に残されている価値
城壁、門、貯水池、道路、住居、工房、墓地が、それぞれ単独で評価されたわけではありません。
都市生活を構成した多様な施設が、位置関係を保ちながら現地に残ることに大きな価値があります。
さらに、初期集落の成立、都市の拡大、繁栄、縮小、再居住という長期的な変化を、一つの遺跡で追える点も重要です。
ドーラビーラ遺跡に残る謎
インダス文字が何を記録したのか
インダス文字が解読されれば、巨大な文字列の意味だけでなく、都市の名称、行政、交易、宗教などを理解する手掛かりが得られるかもしれません。
しかし、現存する文章が短く、既知の文字を併記した二言語碑文も見つかっていないため、解読は難航しています。
誰が都市を統治していたのか
中心区画と一般居住区の違いから、階層化した社会だった可能性が考えられています。
それでも、王の名前を記した碑文や、統治制度を説明する文書は読めません。
王、神官、商人集団などのうち、誰が都市運営の中心だったのかは未解明です。
儀礼広場は何に使われたのか
中心区画の北側にある大きな長方形の空間は、UNESCOの評価資料で儀礼広場と表記されています。
競技場や集会場のように説明される場合もありますが、具体的な用途を示す文字記録はありません。
祭礼、集会、競技などの可能性を考えることはできますが、特定の使い方に限定するのは慎重であるべきです。
ドーラビーラ遺跡の見学情報
所在地とアクセス
- 名称:ドーラビーラ遺跡
- 所在地:インド・グジャラート州カッチ県バチャウ郡ドーラビーラ村周辺
- 住所表記の目安:Dholavira Village, Bhachau Taluka, Kachchh District, Gujarat, India
- 最寄りの空港:ブージ空港
- 最寄りの主要鉄道駅:バチャウ駅
- アクセス:バチャウやブージ方面から道路を利用します。
- 現地施設:インド考古局のドーラビーラ解説センター兼遺跡博物館があります。
- 開館時間・料金:変更される可能性があるため、訪問前にインド考古局のオンラインチケット案内とグジャラート州観光局の公式情報を確認してください。
見どころと見学時の注意点
現地では、北門周辺、中心区画、多重の城壁、街路、住居跡、貯水池などを見学できます。
高い位置から市街区を眺めると、都市の各部分が水利施設や道路によって結び付けられていたことを理解しやすくなります。
カッチ地方は夏季に40度を超えることがあり、ICOMOSの評価資料では11月から2月に来訪者が集中するとされています。
日差しを遮る場所が限られるため、飲料水、帽子、歩きやすい靴などを準備してください。
遺構の上に登ったり、石材や出土物を動かしたりせず、現地の見学ルートと係員の指示に従うことが大切です。
交通事情、開館時間、入場条件は変わる可能性があるため、出発前に必ず最新の公式情報を確認してください。
ドーラビーラ遺跡に関するFAQ
ドーラビーラ遺跡とモヘンジョダロの違いは何ですか?
どちらもインダス文明を代表する計画都市ですが、立地と建築材料に違いがあります。
ドーラビーラは乾燥したカディール島にあり、季節河川の水を蓄える大規模な水利システムと、石材を多用した建築が特徴です。
単純な規模の比較ではなく、異なる環境に適応した都市の姿として見ると特徴が分かりやすくなります。
巨大な文字列には「ドーラビーラ」と書かれているのですか?
そのように確認されたわけではありません。
インダス文字は現在も解読されておらず、10個の記号が都市名、人物名、役職名、宗教的な言葉のどれを表すのかも不明です。
ドーラビーラはすべて石造りの都市ですか?
すべてが石だけで造られたわけではありません。
城壁や基礎、基壇などに石材が広く使われましたが、日干しレンガや泥のモルタルも組み合わせています。
「石材を多用したインダス文明都市」と理解するのが適切です。
墓地に遺骨が少ないのはなぜですか?
発見された施設の多くが、遺体を納めない記念墓だったためです。
ただし、なぜ記念墓を多数造ったのか、遺体を別の場所でどのように扱ったのかは分かっていません。
まとめ
ドーラビーラは環境に適応したインダス文明都市
ドーラビーラ遺跡は、およそ紀元前3000年から紀元前1500年にかけての都市の成立、繁栄、衰退を伝える貴重な遺跡です。
多重の城壁、計画的な街路、石を活用した建築、工房、墓地が残り、インダス文明南部の社会と交易を考える重要な手掛かりになっています。
なかでも、季節的な水を集めて蓄える水利システムは、乾燥地で都市を維持した人々の知恵を具体的に示しています。
一方、巨大なインダス文字の意味、統治者の正体、葬送儀礼、衰退の詳しい経緯には未解明の部分が残ります。
確認された遺構と未解明の謎を分けて見ることで、ドーラビーラ遺跡が持つ歴史的な価値と奥深さが、より鮮明に伝わってきます。
主な出典元
参考にした公式・関連資料
- UNESCO World Heritage Centre「Dholavira: a Harappan City」
- ICOMOS「Dholavira: A Harappan City (India) No 1645」評価書
- UNESCO World Heritage Committee「Decision 44 COM 8B.35」
- Archaeological Survey of India「Dholavira: a Harappan City」
- Archaeological Survey of India「Museums」
- District Kachchh, Government of Gujarat「Dholavira」
- Gujarat Tourism「Dholavira」
- Press Information Bureau, Government of India「Drying of Saraswati like river and Meghalayan drought caused the decline of Harappan city Dholavira」
- British Museum「Indus Valley Civilisation」
- IIT Gandhinagarほか「Archaeological studies at Dholavira using GPR」


