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タラヨティック文化とは?メノルカ島とマヨルカ島に残る巨石建築を解説

古代遺跡と考古学
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タラヨティック文化は、地中海西部のバレアレス諸島で発達した先史時代の文化です。

とりわけメノルカ島とマヨルカ島には、巨大な石を積み上げた塔「タラヨット」をはじめ、ナベタやタウラと呼ばれる独特の建造物が残されています。

文字による記録がほとんどないため、人々が何語を話し、巨石建築をどのような目的で使ったのかについては、現在も分かっていない部分があります。

一方、発掘調査によって、農耕と牧畜を基盤とした暮らし、共同体の変化、地中海交易との関わりが少しずつ明らかになってきました。

ここでは、タラヨティック文化の年代、代表的な建造物、人々の暮らし、宗教、世界遺産に登録された理由、現在も残る謎を分かりやすく紹介します。

  1. タラヨティック文化とは
    1. バレアレス諸島の二つの島を中心に発達した文化
    2. メノルカ島とマヨルカ島には違いがある
  2. タラヨティック文化の年代
    1. 年代の区切り方は資料によって異なる
    2. 世界遺産が対象とするのは約1500年間の文化的変化
  3. タラヨティック文化が成立するまで
    1. 前段階にはナベタ形住居の集落があった
    2. 小集落からタラヨットを中心とする集落へ変化した
  4. タラヨティック文化を代表する巨石建築
    1. タラヨットは集落の中心に築かれた石造塔
    2. ナベタには住居用と埋葬用がある
    3. タウラはメノルカ島に特有のT字形巨石
    4. 円形住居と多柱室から暮らしが見えてくる
    5. 人工洞窟の墓と集落の城壁も重要な遺構
  5. タラヨティック文化の人々の暮らし
    1. 農耕と牧畜が生活の基盤だった
    2. 巨石建築は共同作業と社会組織の存在を示す
    3. 金属加工と手工業も行われていた
  6. 宗教と死者の世界
    1. 神々の名前を伝える文字記録は残っていない
    2. 共同墓は共同体と祖先の結び付きを伝える
  7. 地中海世界との交流とローマ征服
    1. 紀元前6世紀頃から外部との交易が活発になった
    2. バレアレス投石兵が地中海の戦争に参加した
    3. 紀元前123年のローマ征服が大きな転機になった
  8. タラヨティック・メノルカが世界遺産に登録された理由
    1. 2023年にユネスコ世界文化遺産となった
    2. 多様な石造建築と農牧景観が一体で残る
  9. タラヨティック文化の代表的な遺跡
    1. メノルカ島の主な遺跡
    2. マヨルカ島の主な遺跡
  10. タラヨティック文化に残る未解明の点
    1. タラヨットの用途は一つに決められない
    2. タウラが表したものは分かっていない
    3. 社会をまとめた人物や制度は不明
  11. タラヨティック文化のFAQ
    1. タラヨティック文化はサルデーニャ島のヌラーゲ文化と同じですか?
    2. キュクロプス式建築は巨人が造ったのですか?
    3. タラヨティック文化はイビサ島にも広がっていましたか?
  12. まとめ
    1. タラヨティック文化は島の社会変化を石に刻んだ文化
  13. 主な出典元
    1. 参考にした公式・関連資料

タラヨティック文化とは

バレアレス諸島の二つの島を中心に発達した文化

タラヨティック文化は、現在のスペインに属するバレアレス諸島のうち、主にマヨルカ島とメノルカ島で発達しました。

日本語では「タライオティック文化」「タラヨット文化」などと表記されることもあります。

名称のもとになったのは、カタルーニャ語で「タライオット(talaiot)」、スペイン語で「タラヨット(talayot)」と呼ばれる石造の塔です。

タラヨットが集落や周辺地域の目印となるほど目立つ存在だったため、この塔を特徴とする時代と文化がタラヨティック文化と呼ばれるようになりました。

メノルカ島とマヨルカ島には違いがある

二つの島は、青銅器時代には建築や物質文化の多くを共有していました。

しかし、紀元前1200~1100年頃から、それぞれの島で独自の特徴が目立つようになります。

マヨルカ島のタラヨットには、円形または方形の平面、内部空間、屋根を支えた中央柱など、比較的共通した構造が見られます。

これに対して、メノルカ島のタラヨットは形や内部構造の違いが大きく、巨大な中実構造や上部に利用空間を設けたと考えられる例もあります。

さらに、葬送用のナベタやT字形の巨石を置くタウラ聖域は、メノルカ島を代表する建築です。

そのため、タラヨティック文化を一つの均質な文化として見るのではなく、交流を続けながら個性を強めた島ごとの社会として捉える必要があります。

タラヨティック文化の年代

年代の区切り方は資料によって異なる

タラヨティック文化の年代は、研究者や資料によって区分が異なります。

狭い意味では、タラヨットの建設が始まる紀元前1200~1100年頃から、地中海交易の影響が強まる紀元前6世紀頃までを初期または盛期のタラヨティック期と呼びます。

その後、紀元前550年頃から紀元前123年のローマ征服までを、後期タラヨティック期やポスト・タラヨティック期として分ける見方があります。

一方、観光資料や世界遺産の説明では、前段階の青銅器時代を含め、ローマ征服までの長い文化的変化を広い意味の「タラヨティック文化」として扱うことがあります。

年代を確認するときは、狭義の文化期を示しているのか、前後の時代を含む長期的な文化史を示しているのかを区別することが大切です。

世界遺産が対象とするのは約1500年間の文化的変化

ユネスコ世界遺産「タラヨティック・メノルカ」が扱う建築と景観は、紀元前1600年頃から、ローマがバレアレス諸島を征服した紀元前123年までのものです。

この範囲には、住居用ナベタが造られた青銅器時代、タラヨットを中心とする集落が発達した時代、タウラ聖域や円形住居が現れた後期鉄器時代が含まれます。

世界遺産の年代が広いのは、単独の建造物ではなく、約1500年にわたる石造建築と社会の変化が評価されているためです。

タラヨティック文化が成立するまで

前段階にはナベタ形住居の集落があった

メノルカ島では紀元前1600年頃になると、細長い馬蹄形の平面を持つ「住居用ナベタ」が造られるようになりました。

ナベタは、船を逆さにしたような外観から名付けられた石造建築です。

この時代の人々は、小規模な集落で農耕と牧畜を営み、青銅器の製作にも取り組んでいました。

一部の集落は守りやすい高台や岬に築かれており、共同体同士の緊張があった可能性も指摘されています。

ただし、外部からの攻撃を警戒したのか、島内の集団間に対立があったのかは確定していません。

小集落からタラヨットを中心とする集落へ変化した

紀元前2千年紀の終わり頃になると、従来の住居用ナベタの集落は次第に放棄され、より大きな集落へと再編されました。

新しい集落には、通路や広場、作業空間が設けられ、その中心や目立つ場所にタラヨットが築かれます。

この変化の背景として、人口の増加、土地や資源を管理する必要性、共同体の統合、社会の階層化などが考えられています。

新しい集団が島へ移住した可能性も検討されていますが、現時点では内部の社会変化と外部からの影響のどちらか一方に決めることはできません。

タラヨティック文化を代表する巨石建築

タラヨットは集落の中心に築かれた石造塔

タラヨットは、大きな石をモルタルで接着せずに積み上げた塔状建築です。

多くは円錐の上部を切り取ったような形をしていますが、平面や内部構造は島や遺跡によって異なります。

このような大石を使う建築技法は「キュクロプス式」または「巨石積み」と呼ばれます。

キュクロプス式という名称は、後世の人々が「神話の巨人でなければ動かせない」と考えたことに由来する建築用語であり、実際に巨人が建てたことを意味しません。

タラヨットの正確な用途は、現在も完全には解明されていません。

見張り台、防御施設、食料の加工や保管に関わる共同施設、支配層の権威を示す建物、儀礼の場など、複数の役割が提案されています。

発掘されたコルニア・ノウ遺跡では、タラヨットに接する建物から農畜産物の加工や保管に関わる痕跡が確認されました。

ただし、すべてのタラヨットが同じ用途だったとは限らず、時期や集落によって役割が異なった可能性があります。

ナベタには住居用と埋葬用がある

ナベタは船の船体を逆さにしたような形の石造建築です。

前段階の集落で使われた住居用ナベタと、複数の死者を納めた埋葬用ナベタがあるため、用途を混同しないよう注意が必要です。

メノルカ島のナベタ・デス・トゥドンスは、埋葬用ナベタを代表する遺構です。

内部には複数の人骨や副葬品が納められており、一人の有力者だけの墓ではなく、長期間利用された共同墓だったことが発掘調査から分かっています。

埋葬用ナベタはタラヨットが本格的に普及する以前から造られ、タラヨティック期の初めにも使われました。

タウラはメノルカ島に特有のT字形巨石

タウラは、垂直に立てた石柱の上に横長の石を載せたT字形の建造物です。

カタルーニャ語の「taula」は「テーブル」を意味し、その形が名称の由来になりました。

タウラは単独で置かれたのではなく、後期タラヨティック期の集落に築かれた馬蹄形の囲いの中央に立っていました。

囲いの内部から灰、動物の骨、土器、輸入されたアンフォラなどが見つかるため、食肉や酒を伴う共同儀礼が行われた聖域だったという見方が有力です。

ただし、T字形そのものが何を表していたのか、どの神に儀礼を捧げたのかは分かっていません。

円形住居と多柱室から暮らしが見えてくる

後期のメノルカ島では、「サークル」と呼ばれる円形住居が集落内に造られました。

住居には中央の中庭があり、その周囲に調理、休息、手工業などに使う空間が配置されています。

住居に隣接する多柱室は、石柱で大きな石板の屋根を支えた建物で、倉庫などに利用されたと考えられています。

炉、炭化した穀物、土器、紡織や皮革加工に関わる道具などは、巨石建築だけでは分からない日常生活を伝えています。

人工洞窟の墓と集落の城壁も重要な遺構

メノルカ島では、岩盤を掘って造った人工洞窟「ヒュポゲウム」が集団墓として使われました。

後期になると内部に柱や区画を持つ大規模な例が増え、海岸の崖や谷には複数の人工洞窟からなる墓地が形成されます。

また、紀元前6世紀頃以降には、一部の集落を取り囲む大規模な石壁が築かれました。

城壁の建設は社会の緊張や防御の必要性を示す可能性がありますが、その背景を一つの戦争や侵入事件だけで説明することはできません。

タラヨティック文化の人々の暮らし

農耕と牧畜が生活の基盤だった

人々の生活は、穀物栽培と家畜の飼育を中心としていました。

羊、ヤギ、牛、豚などを飼い、肉だけでなく乳、羊毛、皮、労働力も利用したと考えられています。

海に囲まれた島の文化ですが、メノルカ島の複数の遺跡では、漁業よりも農耕と牧畜の役割が大きかったことが確認されています。

発掘された動物骨、植物遺存体、調理炉、貯蔵施設を調べることで、家畜の利用法や食料管理の実態が研究されています。

巨石建築は共同作業と社会組織の存在を示す

巨大な石を切り出し、運び、積み上げるには、多くの人手と作業の調整が必要です。

タラヨットの建設は、共同体に労働をまとめる仕組みがあったことを示しています。

集落の規模、食料管理の集中、輸入品の偏りなどから、時代が進むにつれて社会の階層化が進んだと考えられています。

しかし、王や国家に相当する政治制度が存在したことを示す文字記録はなく、誰が建設を指揮したのかは分かっていません。

金属加工と手工業も行われていた

青銅器時代には銅を利用した道具や装飾品が作られ、後期には鉄器の使用も広がりました。

土器作り、紡織、皮革加工なども、住居や作業空間から見つかった遺物によって確認されています。

島内で得られない金属原料や外来品の存在は、人々が周辺の島々や地中海世界との交流から孤立していなかったことを示します。

宗教と死者の世界

神々の名前を伝える文字記録は残っていない

タラヨティック文化の人々自身が残した、まとまった文字資料は確認されていません。

そのため、信仰した神の名前や神話の内容を直接知ることはできません。

宗教について分かるのは、タウラ聖域、供物と考えられる動物骨、火を使った跡、儀礼用の器、墓の構造などから推定できる範囲です。

後期には外来の器物や信仰に関わる品も入っており、地中海交易を通じて宗教儀礼が変化した可能性があります。

共同墓は共同体と祖先の結び付きを伝える

ナベタ、自然洞窟、人工洞窟には、多数の人々が繰り返し埋葬されました。

この共同埋葬は、死後も家族や集団との結び付きを重視したことを示すと考えられています。

メノルカ島の一部の洞窟では、死者の髪を赤く染め、一部を切り取って木や革の容器に収める特殊な儀礼が確認されています。

ただし、この儀礼が島全体で同じように行われたとは限らず、意味も明らかになっていません。

地中海世界との交流とローマ征服

紀元前6世紀頃から外部との交易が活発になった

紀元前550年頃以降、メノルカ島とマヨルカ島には、地中海各地からワイン用アンフォラや陶器などが持ち込まれるようになりました。

特に、フェニキア人の流れをくむカルタゴ系の文化が栄えたイビサ島との交易が重要だったと考えられています。

輸入品が増えても、在来の石造建築や生活文化がただちに消えたわけではありません。

外来の物品や習慣を取り入れながら、島の社会は独自の文化を維持しました。

バレアレス投石兵が地中海の戦争に参加した

ギリシア・ローマの古典文献には、バレアレス諸島出身の投石兵が記録されています。

彼らは投石器を巧みに扱う兵士として知られ、カルタゴ軍などの傭兵として地中海の戦争に参加しました。

ただし、古典文献は島外の著者による記録であり、投石兵の活動だけでタラヨティック社会全体を説明することはできません。

紀元前123年のローマ征服が大きな転機になった

ローマは紀元前123年にバレアレス諸島を征服しました。

征服直後に在来文化のすべてが消えたわけではなく、集落や墓地の利用、伝統的な習慣はしばらく続きました。

しかし、政治制度、交易、言語、生活様式がローマ世界へ組み込まれるにつれて、タラヨティック文化を担った社会は次第に変化していきます。

タラヨティック・メノルカが世界遺産に登録された理由

2023年にユネスコ世界文化遺産となった

メノルカ島の先史時代遺跡群は、2023年にユネスコ世界文化遺産へ登録されました。

現在の英語名は「Talayotic Menorca」です。

世界遺産は九つの構成資産からなり、登録資産の面積は3527ヘクタール、緩衝地帯は1万9014ヘクタールです。

登録基準は、文化的伝統を伝える証拠に関する基準(iii)と、建築や技術の発展を示す優れた例に関する基準(iv)が採用されています。

多様な石造建築と農牧景観が一体で残る

メノルカ島では、タラヨット、ナベタ、タウラ、円形住居、人工洞窟、多柱室など、多様な建築が比較的良好な状態で残っています。

評価されたのは、珍しい建物が点在していることだけではありません。

集落、墓地、農牧地、建造物同士の見通しなどが一体となり、先史時代の人々が島の土地をどのように組織したのかを読み取れる点に大きな価値があります。

ユネスコは、建造物の方位や遺跡同士の視覚的なつながりに、宇宙観や象徴的な意味があった可能性にも触れています。

ただし、遺跡が天文台だったと確定したわけではなく、方位の意味については今後も検討が必要です。

タラヨティック文化の代表的な遺跡

メノルカ島の主な遺跡

  • トーレ・デン・ガルメス(Torre d’en Galmés):三基のタラヨット、タウラ聖域、円形住居、多柱室などが残り、集落の全体像を理解しやすい遺跡です。
  • ナベタ・デス・トゥドンス(Naveta des Tudons):メノルカ島を代表する埋葬用ナベタで、島の共同埋葬を伝えています。
  • タラティ・デ・ダルト(Talatí de Dalt):保存状態のよいタウラを中心に、タラヨットや住居跡を確認できます。
  • トレプコ(Trepucó):大型のタラヨットとタウラが残り、集落の中心部や後世に築かれた防御施設を観察できます。
  • コルニア・ノウ(Cornia Nou):初期タラヨティック期の研究で重要な遺跡で、タラヨットに接する共同施設が発掘されています。

マヨルカ島の主な遺跡

  • セス・パイセス(Ses Païsses):石壁に囲まれた集落で、タラヨットと周囲の建物が比較的よく残っています。
  • ソン・フォルネス(Son Fornés):大型のタラヨットと居住区の発掘成果から、食料管理や共同体の変化を研究できる遺跡です。
  • カポコルブ・ベル(Capocorb Vell):複数のタラヨットと建物群が残り、マヨルカ島の集落構造を伝えています。

遺跡によって公開時間、料金、駐車場、立ち入り可能な範囲が異なります。

修復や発掘調査によって見学条件が変わることもあるため、訪問前にメノルカ島評議会、バレアレス諸島観光局、各遺跡の公式情報を確認してください。

タラヨティック文化に残る未解明の点

タラヨットの用途は一つに決められない

タラヨットが目立つ場所に築かれたことから、領域の目印や集落間の連絡、防御に関係したという説があります。

一方、発掘では食料の加工や保管に関わる建物との結び付きも確認され、社会的・経済的な役割も注目されています。

形や内部構造に大きな違いがあるため、すべてのタラヨットに同じ説明を当てはめるのは難しい状況です。

タウラが表したものは分かっていない

タウラ聖域で共同儀礼が行われたという見方は、発掘された動物骨、灰、器、アンフォラなどに基づいています。

しかし、中央のT字形巨石が神そのものを表したのか、神聖な建築要素だったのか、別の象徴だったのかは分かっていません。

天体や特定の星と結び付ける説もありますが、研究者の間で結論が一致しているわけではありません。

社会をまとめた人物や制度は不明

巨石建築の規模は、高度な労働組織があったことを示します。

後期に社会の階層化が進んだという見方も有力です。

それでも、王、首長、祭司などの役割を直接示す文字資料はなく、政治と宗教を誰が担ったのかは解明されていません。

タラヨティック文化のFAQ

タラヨティック文化はサルデーニャ島のヌラーゲ文化と同じですか?

同じ文化ではありません。

どちらも地中海の島で塔状の巨石建築を発達させたため比較されますが、建物の構造、地域、年代、社会の変化には違いがあります。

交流や共通する地中海的背景を検討する研究はあるものの、外観の類似だけで一方が他方から直接生まれたとは断定できません。

キュクロプス式建築は巨人が造ったのですか?

巨人が建設したことを示す考古学的証拠はありません。

キュクロプス式は、非常に大きな石を使った石積みを表す建築用語です。

タラヨットなどは、当時の人々が共同作業によって石を運び、加工し、積み上げた建築物と考えられています。

タラヨティック文化はイビサ島にも広がっていましたか?

一般的にタラヨティック文化の中心とされるのは、マヨルカ島とメノルカ島です。

イビサ島とフォルメンテラ島を含むピティウザス諸島は、青銅器時代以降に異なる文化的な歩みを見せ、のちにフェニキア・カルタゴ系の拠点として発展しました。

ただし、島々は海上交易を通じて結ばれており、特に後期のマヨルカ島とメノルカ島はイビサ島から大きな影響を受けました。

まとめ

タラヨティック文化は島の社会変化を石に刻んだ文化

タラヨティック文化は、マヨルカ島とメノルカ島で発達した先史時代の文化です。

名称の由来となったタラヨットのほか、ナベタ、タウラ、円形住居、人工洞窟などの石造建築が残されています。

発掘調査からは、人々が農耕と牧畜を営み、金属加工や手工業に取り組み、地中海世界と交流していたことが分かっています。

一方、タラヨットの詳しい用途、タウラの象徴的な意味、政治や宗教を担った人々については、現在も結論が出ていません。

2023年に世界遺産となったタラヨティック・メノルカは、巨石建築だけでなく、集落や墓地、農牧景観を通して島の社会が約1500年にわたり変化した過程を伝えています。

石の形だけでなく、その周囲で営まれた生活や共同体の変化に目を向けることで、タラヨティック文化の魅力をより深く理解できます。

主な出典元

参考にした公式・関連資料

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