「北海道には古墳がない」という言説は、日本史を学んだ多くの人にとって半ば常識のように語られてきました。
教科書や一般向けの歴史書でも、古墳文化は畿内から東北地方へ広がり、その北限は本州にあると説明されることがほとんどです。
ところが、北海道江別市で確認されている江別古墳群は、そうした固定観念に静かに、しかし確実に疑問を投げかける存在です。
本州を中心に展開した古墳文化と、北海道で連綿と続いた縄文・続縄文・擦文・アイヌ文化は、長らく別系統の歴史として語られてきました。
しかし、江別古墳群はその二つの文化圏の「はざま」に位置し、両者がまったく無関係だったわけではないことを示唆しています。
石狩川流域という地理条件は、人や物、情報が南北に行き交う回廊として機能しており、その中で独自の墳墓文化が形成された可能性があります。
江別古墳群が注目される理由は、「北海道にも前方後円墳があったのか」という単純な驚きにとどまりません。
むしろ重要なのは、なぜこの地で古墳的な墳墓が築かれたのか、誰がどのような思想や社会背景のもとで営んだのか、という点です。
そこには、東北地方との交流、続縄文から擦文文化への転換期における社会変化、さらには後のアイヌ文化へと連なる長い歴史の連続性が関わっていると考えられます。
本記事では、江別古墳群の基本情報を整理したうえで、「北海道に古墳がない」とされてきた理由を検証し、アイヌ文化やチャシとの関係、出土資料や年代測定の成果を踏まえて考察します。
そして、江別古墳群を単なる例外的存在としてではなく、日本列島北部における文化接触と人の移動を読み解く重要な鍵として捉え直し、「なぜ北海道に古墳があるのか」という問いに多角的に迫っていきます。
江別古墳群の基本情報

位置と規模
江別古墳群は北海道石狩平野の東部、現在の江別市周辺に点在する小規模な墳墓群です。
地形的には石狩川流域に近い緩やかな台地や微高地に分布しており、洪水や湿地を避けた立地選択がなされている点が特徴です。
一般的な前方後円墳のような巨大な盛土や明確な墳丘形状は確認されておらず、低い円形・楕円形の盛り上がりや、周囲に浅い溝を伴う構造が中心とされています。
こうした規模や形態は、本州の古墳文化をそのまま踏襲したものではなく、地域の自然環境や社会構造に合わせて簡略化・変容した結果と考えられます。
墳丘の高さが控えめであるため、長らく自然地形と区別されにくく、現存数は限られています。
実際には、都市化や農地開発、河川改修などによって失われた遺構も多いと推測されており、現在確認されている数は、当時の全体像の一部に過ぎない可能性があります。
それでもなお、石狩川流域という北海道有数の交通・交流の要衝に立地している点は重要です。
石狩川は内陸と沿岸部を結ぶ動脈であり、南北の人の移動や交易を支えました。
江別古墳群の立地は、被葬者が地域社会の中で一定の役割や地位を担っていたこと、あるいは広域交流と深く関わっていたことを示唆しています。
発見と発掘史:出土記録でたどる変遷
江別古墳群が学術的に注目されるようになったのは、近代以降に行われた断続的な発掘調査や記録整理によります。
調査初期には、これらの盛り上がりが「自然の高まり」や「近世以降の墓」、あるいは農地造成に伴う人工地形と誤認された例も少なくありませんでした。
北海道に古墳は存在しないという先入観が、評価を難しくしていた側面もあります。
しかし、地表観察や試掘調査が進むにつれ、墳丘の形状や周溝の存在、埋設施設の痕跡などから、意図的に築かれた墳墓構造であることが明らかになっていきました。
特に、出土した土器片の型式分析や炭化物の検討により、単なる近世遺構では説明できない点が次第に浮かび上がります。
その後の調査では、続縄文文化から擦文文化初期にかけての年代観が提示され、江別古墳群は北海道史の中でも特異な位置づけを与えられるようになりました。
発掘例や資料数は決して多くありませんが、これまでの出土記録の積み重ねによって、江別古墳群が古代にさかのぼる墳墓群である可能性は、学術的にも一定の説得力をもって受け止められています。
『北海道に古墳がない』とは何か

東北中心の古墳文化
古墳時代の墳墓文化は、3世紀後半以降に畿内を中心として成立し、政治的・社会的なネットワークの拡大とともに各地へ波及していったと考えられています。
その広がりは一様ではなく、地域ごとに受容の度合いや表現方法に差がありましたが、概ね東北地方南部から中部にかけてが北限とされてきました。
このため、北海道は古墳文化圏の外側に位置し、独自の文化史を歩んだ地域として理解されてきたのです。
こうした理解の背景には、畿内型前方後円墳のような大規模で視覚的に分かりやすい古墳が北海道で確認されていないという事実があります。
その結果、「北海道に古墳がない」という表現は、巨大古墳の不在を根拠に定着していきました。
しかしこの認識は、古墳文化を画一的な様式として捉えたものであり、地域ごとに小型化・簡略化した墳墓や、在地文化と融合した変容型の存在を十分に考慮したものとは言えません。
近年では、東北北部においても在地文化と結びついた多様な墳墓形態が確認されており、古墳文化を「ある・ない」で単純に区分することの限界が指摘されています。
江別古墳群を考える際にも、北海道が完全な空白地帯だったのか、それとも周縁的ながら古墳文化の影響を受け取る位置にあったのか、という視点が重要になります。
縄文時代から末期古墳までの古墳の歴史
縄文時代の墓制は、土壙墓や貝塚内埋葬が中心で、集団墓地を形成する例はあるものの、盛土によって被葬者の地位を示すような古墳的構造は一般的ではありませんでした。
埋葬は共同体の中に溶け込む形で行われ、個人の権威を強調する要素は限定的だったと考えられます。
しかし、弥生時代後期から古墳時代に入ると、本州では社会の階層化が進み、有力者の存在を可視化する手段として墳墓が大型化していきます。
前方後円墳をはじめとする巨大墳墓は、単なる墓ではなく、政治的・宗教的シンボルとして機能しました。
一方で、その影響は地域によって選択的に受け入れられ、必ずしも同一の形で広がったわけではありません。
北海道では、弥生文化の本格的な浸透は見られず、縄文文化を基盤とした続縄文文化が長く継続しました。
その後、擦文文化へと移行する過程でも、本州とは異なる社会構造と価値観が維持されていきます。
江別古墳群は、こうした北海道独自の文化史の流れの中で、外来要素である古墳的発想が部分的に取り入れられた事例と考えることができます。
つまり江別古墳群は、縄文的伝統と古墳文化的要素が並行して存在した過渡期に位置づけられ、本州の古墳史と北海道の在地文化史が交錯する接点を示す存在である可能性があります。
江別古墳群とアイヌ/チャシの関係とは

チャシやアイヌの墳墓習俗と古墳構造の比較
アイヌ文化における代表的な遺構として知られるチャシは、丘陵端部や河岸段丘などの要害地形に築かれた防御的性格の強い施設であり、集落防衛や争いへの備えを目的とした拠点と考えられています。
その構造や立地は、居住域や交通路を見渡すことを重視しており、埋葬を主目的とする墳墓とは機能的にも思想的にも大きく異なります。
また、近世以降に記録されたアイヌの墓制は、地表に大きな盛土を築く例が少なく、木標や簡素な区画によって墓域を示すことが一般的でした。
死者を過度に顕彰することよりも、共同体の中で静かに弔う姿勢が重視されていたと考えられます。
このような埋葬観は、盛土によって被葬者の存在を強調する古墳的発想とは方向性を異にしています。
これらの点を踏まえると、江別古墳群の盛土構造を、直接的にアイヌ文化の墳墓習俗と結びつけて理解することには無理があります。
むしろ、江別古墳群はアイヌ文化成立以前、あるいはその前段階に位置する社会集団によって築かれた可能性を前提に、慎重に検討する必要があります。
擦文・オホーツク文化との接触痕跡
江別周辺は、続縄文文化から擦文文化へと移行する過程において、人や物の往来が活発に行われた地域と考えられています。
石狩川流域は内陸と沿岸部を結ぶ重要な交通路であり、生活物資だけでなく、技術や価値観も共有されやすい環境にありました。
実際に、江別古墳群周辺から出土する遺物の様式には、東北地方に由来する要素と、北海道在地の文化的特徴が同時に認められる例があります。
器形や装飾、製作技法の細部に見られるこうした混在は、単純な文化の断絶ではなく、段階的な接触と融合を反映していると考えられます。
また、直接的な遺構は限られるものの、オホーツク文化圏との間接的な交流を示唆する指標も指摘されており、広域的な文化ネットワークの存在がうかがえます。
これらの状況から、江別古墳群は単一文化の内部で完結した存在ではなく、複数の文化的影響が重なり合う環境の中で形成された墳墓群と見るのが妥当でしょう。
民族移動の可能性と東北地方からの影響
江別古墳群をめぐっては、東北地方から北海道への人の移動や、婚姻関係を通じた血縁的つながり、さらには交易ネットワークの存在などが複合的な要因として想定されています。
特に古代においては、石狩川水系を利用した南北交流が現実的であり、季節的移動や物資交換を通じて、本州北部の文化要素が北海道へと伝わる素地がありました。
その結果として、被葬者の社会的立場や価値観を表現する手段として、古墳的な墳墓形式が選択された可能性があります。
ただし、それは本州の古墳文化を全面的に受け入れたものではなく、在地文化の枠組みの中で取捨選択された限定的な受容だったと考えられます。
江別古墳群は、こうした民族移動と文化交流の具体的な痕跡として、小規模ながらも重要な意味を持つ存在だと言えるでしょう。
出土資料と年代測定が示す江別古墳群の実像

土器・副葬品の様式分析から見える文化的指標
出土した土器には、続縄文系の要素を基盤としながらも、本州的な製作技法や形態的特徴の影響が見られるものがあります。
胎土の調整方法や焼成の度合い、器形のバランスなどにおいて、北海道在地の伝統を踏まえつつ、新たな技術的知識が取り入れられた痕跡が確認できます。
これは、単なる模倣ではなく、外来文化を取捨選択しながら受容した結果と考えられます。
副葬品の量は多くありませんが、装身具や鉄製品が含まれている点は注目されます。
鉄製品は当時の北海道では貴重な資源であり、広域交易や人的交流を通じて入手された可能性が高いとされています。
こうした副葬品の存在は、被葬者が集団内で一定の社会的地位や役割を担っていたこと、あるいは外部との接点を持つ人物であったことを示唆します。
土器と副葬品の組み合わせからは、江別古墳群が在地社会の中でも特定の層に関わる墳墓であった可能性が読み取れます。
炭素年代や世紀推定の結果とその信頼性
炭化物を対象とした放射性炭素年代測定では、概ね7世紀から9世紀頃に相当する数値が得られています。
この時期は、本州において古墳文化が終末期を迎え、政治的・社会的枠組みが大きく変化しつつあった時代にあたります。
同時に、東北北部では在地的要素を色濃く残した地域文化が形成され、北海道では擦文文化が成立し始める重要な転換期でもありました。
年代測定の結果は、測定点数が限られていることや、出土状況の制約から一定の幅をもって解釈する必要があります。
それでも、複数のデータが擦文文化初期と重なる時期を示している点は注目に値します。
江別古墳群が、本州の古墳文化が衰退する時代と、北海道の新たな文化段階が始まる時期に位置づけられることは、その成立背景を考えるうえで重要な意味を持っています。
墳墓構造の技術的特徴と本州の古墳との差異
江別古墳群の墳墓は、本州の古墳に一般的に見られる横穴式石室や竪穴式石室、明確に整形された墳丘を欠く場合が多く、簡素な盛土構造が中心です。
墳丘の規模や構造は比較的控えめで、労働力を大量に投入するような築造方法は採られていません。
このような特徴は、古墳文化の思想や形式をそのまま移植したものではなく、在地文化の枠組みの中で必要最小限の要素のみが再解釈され、実践された結果と考えられます。
江別古墳群の構造的特質は、北海道における古墳的墳墓が、権力誇示よりも象徴的・儀礼的意味合いを重視していた可能性を示しており、本州の古墳とは異なる発展形を示す重要な事例と言えるでしょう。
歴史的・文化的意義と地域への影響

江別古墳群の重要性
江別古墳群は、北海道が本州文化から完全に隔絶された地域ではなかったことを示す、きわめて重要な事例です。
古墳という葬送形式が北海道に存在するという事実は、日本列島を南北で分断して捉える従来の歴史観に再考を促します。
とりわけ、江別古墳群は中央政権の支配が直接及んだ証拠ではなく、周縁地域における文化受容と変容のプロセスを具体的に示している点に価値があります。
在地文化を基盤としながら、外来要素を部分的に取り込み、独自の形で再構成する姿は、日本列島史における多様性と柔軟性を象徴しています。
江別古墳群は「北海道にも古墳があった」という事実以上に、文化が境界を越えてどのように伝わり、どのように変化していくのかを考えるための重要な手がかりを提供しているのです。
教育・観光・保全のバランス
一方で、江別古墳群は全国的な知名度が高いとは言えず、地域外ではその存在自体があまり知られていません。
そのため、史跡としての価値をどのように伝え、次世代へ継承していくかが大きな課題となっています。
保存を最優先としつつも、適切な解説や情報発信を行わなければ、その意義は十分に共有されません。
過度な観光化によって遺構が損なわれることは避けるべきですが、学校教育や地域史学習、郷土資料館での展示などを通じて、江別古墳群を身近な歴史遺産として位置づけることは可能です。
地域住民が自らの土地の歴史を理解し、誇りを持つきっかけとして活用することで、保全と活用のバランスをとりながら、地域文化への理解をより深めていく役割が期待されます。
まとめ
江別古墳群は、「北海道に古墳がない」という長年語られてきた通説に対して、重要な再検討を促す存在です。
そこに見られるのは、畿内や東北地方に広がった巨大な前方後円墳ではなく、北海道という地域の自然環境や社会構造に即した、小規模で地域色の強い墳墓群の姿です。
この点にこそ、江別古墳群の本質的な意義があります。
本記事で見てきたように、江別古墳群は在地文化を基盤としながら、東北地方を中心とする本州文化の影響を部分的に受け止め、その要素を独自に再構成した結果として成立した可能性が高いと考えられます。
アイヌ文化やチャシと直接結びつけることはできないものの、その前段階にあたる時代に、人の移動や交易、婚姻関係を通じた交流が存在していたことは、出土資料や年代測定の結果からも読み取ることができます。
江別古墳群は、北海道と本州を明確に切り分けてきた従来の歴史観に対し、両者のあいだに連続性と重なり合いがあったことを示す具体例と言えるでしょう。
こうした境界地域の遺構に目を向けることで、日本列島の歴史は、より立体的で多層的なものとして捉え直すことができます。江別古墳群は、そのための重要な手がかりを今なお私たちに提供しているのです。
主な出典元



