栃木県芳賀郡益子町にある浅間塚古墳(せんげんづかこふん)は、古墳時代前期に造られた前方後方墳です。
栃木県立益子芳星高等学校の敷地内にあり、全長約52メートルの墳丘が良好な状態で残されています。
埋葬施設は調査されておらず、出土品や被葬者も分かっていません。
それでも、墳丘の形や周辺地形を調べることで、築造年代や古墳を目立たせるための工夫が見えてきました。
ここでは、浅間塚古墳の特徴、築造年代を推定した根拠、保存の経緯、見学方法を公式資料に基づいて紹介します。
浅間塚古墳とは
益子町塙に残る県指定史跡
浅間塚古墳は、栃木県芳賀郡益子町大字塙の栃木県立益子芳星高等学校内にあります。
小貝川の西側に広がる台地の先端に築かれ、前方部をほぼ東へ向けています。
2016年3月4日には、栃木県指定史跡に指定されました。
県内では前方後方墳の数が少ないうえ、浅間塚古墳は墳丘の保存状態が良好です。
栃木県東部における古墳時代前期の墓制を知るうえで、貴重な文化財と評価されています。
築造は4世紀中葉から後葉と考えられている
浅間塚古墳が造られた時期は、4世紀中葉から後葉と考えられています。
ただし、この年代は埋葬施設から出土した品によって直接決められたものではありません。
周辺にある前方後方墳との比較や、前方部がどの程度発達しているかという墳形の特徴をもとに推定されています。
浅間塚古墳の形と規模
全長約52メートルの前方後方墳
前方後方墳とは、上から見たときに前方部と後方部がともに四角く見える古墳です。
円形の後円部を持つ前方後円墳とは形が異なります。
浅間塚古墳の全長は約52メートルです。
後方部は長さ約28メートル、幅約28メートル、高さ約4メートルで、ほぼ正方形に近い形をしています。
前方部は長さ約24メートル、幅約20メートル、高さ約3.5メートルです。
後方部に対して前方部が比較的大きく発達している点が、築造年代を考える手掛かりになっています。
葺石などの外表施設は確認されていない
指定時の調査では、墳丘の表面を石で覆う葺石(ふきいし)などの外表施設は確認されていません。
これは、当初から存在しなかったことを完全に証明するものではなく、現在までの調査で確認されていないという意味です。
墳丘には後世の改変が一部見られるものの、全体の形はよく保たれています。
立地から見える古墳造りの工夫
小貝川沿いの低地を望む舌状台地に築かれた
浅間塚古墳は、東側を南へ流れる小貝川によって形成された沖積低地に面しています。
沖積低地とは、川が運んだ土砂によってできた平坦な土地です。
さらに詳しく見ると、古墳は東側の低地と西側の谷に挟まれた、舌のように細長く延びる台地の先端に位置します。
この場所は周囲の低地から見上げやすく、墳丘の存在を示すのに適した立地だったと考えられます。
北・西側の周溝と南・東側の平坦面は役割が異なる
墳丘の北側から西側には、周溝(しゅうこう)の痕跡とみられる浅いくぼみがあります。
周溝は古墳の周囲に設けられた溝で、墳丘と周辺の土地を区切る役割を持ちます。
一方、南側から東側には、幅約10~15メートルの平坦面が確認されています。
指定時の調書では、この平坦面を古墳の築造時に地面を整えて造ったものと推定しています。
北・西側では周溝によって台地から墳丘を切り離し、低地に面する南・東側では平坦面を設けることで、小貝川側から見た古墳を際立たせた可能性があります。
単に高い場所を選んだだけでなく、見る方向を意識して周囲の地形を整えたと考えられる点は、浅間塚古墳の大きな特徴です。
築造年代と芳賀地域の古墳文化
山崎1号墳との比較が年代推定の手掛かりになった
浅間塚古墳の南約6キロメートルには、同じ前方後方墳である山崎1号墳があります。
山崎1号墳は、出土品から4世紀第2四半期ごろに造られたと推定されています。
浅間塚古墳は周辺の前方後方墳より前方部が発達しているため、山崎1号墳より少し後の段階に位置づけられる可能性が指摘されました。
この比較をもとに、浅間塚古墳の築造時期は4世紀中葉から後葉と考えられています。
出土品が分からない古墳でも、形の変化と年代の分かる周辺例を組み合わせることで、おおよその時期を絞り込めるのです。
芳賀郡に集中する前方後方墳の一つ
2015年にまとめられた栃木県文化財保護審議会の調書では、芳賀郡で古墳時代前期の前方後方墳が浅間塚古墳を含めて6基確認されていました。
同じ調書は、栃木県内の古墳を約7,000基と推定する一方、前方後方墳は可能性のあるものを含めても22基としています。
これらは指定時点の集計ですが、浅間塚古墳が県内でも数の少ない墳形を良好に残すことを示しています。
周辺の古墳と形や年代を比較できるため、芳賀地域で古墳文化がどのように展開したかを考える際にも重要です。
調査と保存の経緯
学校造成に伴う調査で周溝が確認された
益子芳星高等学校の公式ページによると、学校の校庭を造成する際、4本のトレンチによって周溝が確認されました。
トレンチとは、地中の状態を確かめるために細長く掘る調査区のことです。
周溝の位置を確認した後は、その範囲から距離を取って学校敷地が整備され、墳丘が保存されました。
学校建設と遺跡保存を両立させた経緯を確認できる点も、浅間塚古墳の特徴です。
県指定史跡として地域学習に活用されている
浅間塚古墳は長く学校敷地内で管理され、学校職員による整備も続けられてきました。
その後、保存状態の良さと学術的な価値が評価され、2016年に栃木県指定史跡となりました。
現在は、古墳時代の地域史を身近に学べる資料としても位置づけられています。
埋葬施設と被葬者に残る謎
埋葬施設は未調査のため詳しい構造は分からない
浅間塚古墳の埋葬施設は調査されておらず、詳しい構造は分かっていません。
指定時の調書では、後方部の墳頂下に竪穴系の埋葬施設があると推定されています。
竪穴系の埋葬施設とは、墳丘の上から墓穴を掘り下げ、遺体を納めた後に閉じる形式です。
ただし、実際の位置、形、大きさ、石材の有無などは確認されていません。
出土品と被葬者も特定されていない
指定時の資料では、浅間塚古墳の出土遺物は不明とされています。
「遺物がなかった」という意味ではなく、埋葬施設が未調査で、年代や被葬者の手掛かりになる遺物が確認されていないということです。
被葬者の名前や立場を直接示す史料も見つかっていません。
墳丘の規模から特定の人物名を推測することはできず、誰の墓なのかは現在も分かっていません。
未調査の部分を残したまま保存されているため、将来の調査技術によって新しい情報が得られる可能性もあります。
浅間塚古墳の見学情報
所在地とアクセス
見学情報は2026年9月に各公式ページで確認した内容です。
- 名称:浅間塚古墳
- 所在地:栃木県立益子芳星高等学校敷地内
- 住所:栃木県芳賀郡益子町塙2382-1
- アクセス:真岡鐵道七井駅から約1.2キロメートル、徒歩約15分
- 公開状況:公開。栃木県の案内では、校外から見学できます
- 見学時間:古墳専用の見学時間は案内されていません
- 料金:公式な料金案内はありません
- 休館日:古墳専用の休館日は案内されていません
- 特徴:全長約52メートルの前方後方墳で、墳丘の保存状態が良好です
- 見学時の注意点:学校敷地内にあるため、授業や学校行事を妨げず、敷地内へ無断で立ち入らないでください
- 駐車場:古墳見学者向け駐車場の公式案内は確認できません
交通機関の運行状況や学校行事は変わることがあるため、訪問前に学校や文化財の公式ページで最新情報を確認してください。
見どころは墳丘と周辺地形のつながり
浅間塚古墳を見るときは、盛り上がった墳丘だけでなく、古墳が台地の端に置かれていることにも注目してみてください。
後方部と前方部の高さや幅の違いを意識すると、前方後方墳の輪郭を捉えやすくなります。
さらに、小貝川沿いの低地に面する方向を確かめると、築造者が周囲からの見え方を重視したという解釈も理解しやすくなります。
浅間塚古墳についてのよくある質問
浅間塚古墳は前方後円墳と前方後方墳のどちらですか?
栃木県文化財保護審議会の指定時調書と益子町の公式ページでは、浅間塚古墳を前方後方墳としています。
栃木県文化財検索ページの概要冒頭には「前方後円墳」との表記がありますが、同じページの後半では「前方後方墳」と記され、墳丘の各部も後方部として説明されています。
測量図でも後方部は方形に表されているため、指定時資料に基づけば前方後方墳とするのが適切です。
埋葬施設を発掘していないのに、なぜ築造年代が分かるのですか?
古墳は、墳丘の形や前方部の発達の仕方にも時期による変化があります。
浅間塚古墳の場合は、出土品によって年代を推定できる山崎1号墳など、周辺の前方後方墳との比較が行われました。
そのため、正確な築造年は不明ですが、4世紀中葉から後葉という年代の幅が示されています。
まとめ
分かっていることと残る謎
浅間塚古墳は、栃木県益子町に残る全長約52メートルの前方後方墳です。
墳形と周辺例の比較から4世紀中葉から後葉の築造と考えられ、2016年には栃木県指定史跡となりました。
小貝川沿いの低地を望む台地の先端に築かれ、周溝と平坦面を使って墳丘を目立たせた可能性が指摘されています。
一方、埋葬施設は未調査で、出土品や被葬者も分かっていません。
分からない部分を無理に補わず、保存された墳丘と地形から古墳時代の地域社会を考えられることが、浅間塚古墳の魅力です。

