茨城県つくば市にある八幡塚古墳は、筑波山の南麓に築かれた大型の前方後円墳です。
正式な県指定文化財の名称は「八幡塚」ですが、所在地から「沼田八幡塚古墳」や「常陸八幡塚古墳」とも呼ばれています。
現在の調査成果では、6世紀前葉ごろに築かれた墳丘長約91メートルの古墳と考えられています。
桜川中流域では最大規模とされ、古墳時代後期の筑波地方に大きな力を持った首長の墓とみられています。
一方、埋葬施設は十分に調査されておらず、実際に誰が葬られたのかは分かっていません。
ここでは、八幡塚古墳の場所や形、発掘調査で確認されたこと、筑波国造との関係、現在も残る謎、見学時の注意点を分かりやすく紹介します。
八幡塚古墳の基本情報
つくば市沼田にある県指定史跡
八幡塚古墳は、茨城県つくば市沼田にあります。
筑波山の南側に広がる平地に位置し、桜川流域と筑波山麓を見渡しやすい場所に築かれました。
県の文化財としての指定名称は「八幡塚」です。
1937年3月9日に茨城県指定史跡となり、1972年12月18日には指定範囲が追加されました。
現在はつくば市が管理しています。
古墳の周辺は住宅地や農地に近く、巨大な観光施設のように整備された場所ではありません。
地域の暮らしの中に古代の墳丘が残されている点も、この古墳の特徴です。
6世紀前葉に築かれた前方後円墳
現在のつくば市と茨城県の案内では、八幡塚古墳は6世紀前葉ごろに築かれたと考えられています。
6世紀前葉とは、おおむね6世紀の初めから前半にかけての時期です。
古墳時代の区分では後期にあたり、東日本各地で有力者の大型古墳が造られていた時代でした。
墳形は前方後円墳です。
前方後円墳とは、上から見たときに円形の部分と四角形に近い部分を組み合わせた形の古墳を指します。
円形の部分を後円部、四角形に近い部分を前方部と呼びます。
八幡塚古墳の墳丘長は約91メートルとされ、桜川中流域では最大規模です。
筑波山麓を代表する首長墓の一つといえます。
茨城県内にある同名古墳との違い
茨城県内には、八幡塚古墳と呼ばれる別の古墳もあります。
古河市にある八幡塚古墳は、直径約40メートル、高さ約4メートルの円墳で、6世紀ごろの築造と考えられている市指定史跡です。
この記事で扱うのは、つくば市沼田の前方後円墳です。
検索すると古河市の古墳や、群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳が表示される場合もあるため、所在地を確認することが大切です。
八幡塚古墳が築かれた歴史的背景
古墳時代後期の筑波地方
八幡塚古墳が築かれた6世紀前半、現在の茨城県一帯には、それぞれの地域を治める有力な豪族がいました。
豪族とは、土地や人々をまとめ、政治や祭祀に強い影響力を持った集団です。
当時の日本列島では、近畿地方のヤマト王権と各地の豪族が関係を結びながら、地域社会を形成していました。
前方後円墳は、単なる個人の墓ではありません。
多くの人手と大量の土を必要とする大規模な建造物であり、築造できること自体が首長の権力を示しました。
約91メートルという八幡塚古墳の規模は、被葬者が筑波山麓と桜川流域で特に重要な立場にあった可能性を示しています。
ただし、墳丘の大きさだけで具体的な役職や人物名を決めることはできません。
筑波山麓と桜川流域の重要性
八幡塚古墳は、筑波山の南麓にあたる場所にあります。
筑波山は遠方からも見える特徴的な山で、古くから地域の目印となってきました。
また、古墳の近くを流れる桜川は、周辺の平地や集落を結ぶ自然の交通路として利用された可能性があります。
つくば市の文化財保存活用計画では、市域に多数の古墳があり、大型古墳が筑波山麓や桜川下流域に多く分布すると説明されています。
この分布からは、水田を開発し、人や物の移動を管理した有力者が、河川沿いや山麓に拠点を置いた様子が想像できます。
八幡塚古墳は、そのような地域社会の中心にいた首長の存在を考えるうえで重要です。
前方後円墳が示すヤマト王権とのつながり
前方後円墳は、古墳時代の日本列島に広く分布しています。
同じ基本形を持つ墓が各地に築かれたことから、地方の首長たちがヤマト王権を中心とする政治的な秩序と何らかの関係を持っていたと考えられています。
ただし、前方後円墳を造った人物が、すべてヤマト王権に直接支配されていたと断定することはできません。
地域の首長は、中央との結びつきを持ちながらも、それぞれの土地で独自の力を保っていたとみられます。
八幡塚古墳の大きさは、筑波地方の首長が広い範囲をまとめる力を持ち、周辺地域との交流にも関わっていた可能性を示しています。
八幡塚古墳の形と特徴
東西方向に延びる大きな墳丘
八幡塚古墳は、東西方向に延びる前方後円墳です。
現在は後円部が比較的よく残り、前方部は整備によって形が復元されています。
現地では、木々に覆われた高い後円部と、緩やかに広がる前方部の違いを確認できます。
ただし、古墳が築かれた当時の姿が、そのまま完全に残っているわけではありません。
長い年月の間に耕作や土地利用の影響を受け、特に前方部の多くが失われました。
現在見える輪郭には、発掘調査や測量の成果をもとに整えられた部分が含まれています。
後円部と前方部の構造
調査成果をもとにした現地の説明では、後円部は複数の段を持つ構造だったと考えられています。
古墳の斜面を階段状に築く方法を段築と呼びます。
段築には墳丘を安定させる役割があったほか、古墳をより高く大きく見せる効果もありました。
前方部についても段を持つ構造だったとみられますが、失われた部分が多いため、細部まで確定しているわけではありません。
古墳を見るときは、後円部の高さだけでなく、前方部とのつながりや、周囲の地形との関係にも注目すると全体像を理解しやすくなります。
埴輪が置かれていた古墳
八幡塚古墳では、埴輪が確認されています。
埴輪とは、古墳の上や周囲に並べられた素焼きの焼き物です。
筒形の円筒埴輪のほか、人や動物、家、道具などを表した形象埴輪が造られました。
つくば市の公式説明では、古墳近くの八幡池から、髪を結った女性を表す埴輪が見つかったとされています。
この埴輪がどの位置に置かれていたのか、どのような儀礼を表していたのかについては、慎重に考える必要があります。
一般的に形象埴輪は、被葬者の権威や葬送儀礼、当時の社会の役割を表したものと考えられています。
しかし、一体の埴輪だけから具体的な物語を断定することはできません。
それでも、衣服や髪形を知る手がかりとなる貴重な考古資料です。
八幡社と古墳名の由来
「八幡塚」という名称は、後円部に八幡社が祀られていたことに由来すると説明されています。
古墳が造られた6世紀前半と、後世に広がった八幡信仰は同じ時代のものではありません。
つまり、古墳の築造時から「八幡塚」と呼ばれていたわけではないと考えられます。
古代の墓が後世に神社の場所となり、地域の信仰によって守られてきた例は各地にあります。
八幡塚古墳も、古墳時代の首長墓という性格に加え、地域の祭祀や信仰の場として受け継がれてきました。
陪塚と考えられる円墳
八幡塚古墳の近くには、陪塚と考えられている円墳があります。
陪塚とは、大型古墳に付属するように築かれた比較的小さな古墳です。
大型古墳の被葬者と関係の深い人物を葬った墓、副葬品を納めた施設、儀礼に関わる場所など、さまざまな役割が想定されています。
ただし、近くにあるだけで必ず陪塚と決まるわけではありません。
八幡塚古墳との築造時期や埋葬内容がどのように対応するかを明らかにするには、さらに詳しい調査が必要です。
発掘調査と史跡整備で分かったこと
1978年度から行われた整備調査
八幡塚古墳では、史跡整備を目的として1978年7月から1979年3月にかけて調査が行われました。
調査成果は、1979年に筑波町教育委員会が刊行した『常陸八幡塚古墳整備報告書』にまとめられています。
当時は現在のつくば市ではなく、筑波郡筑波町に属していました。
調査では古墳の形を確認し、失われた前方部をどのように保存・整備するかが検討されました。
全国遺跡報告総覧の書誌情報では、主な出土遺物として埴輪が記録されています。
前方部は調査成果をもとに復元された
八幡塚古墳の前方部は、耕作などによって大半が失われ、一時は周囲より少し高い土地として形を読み取れる程度でした。
その後、史跡整備に伴って前方部が復元されました。
ここでいう復元は、新しい古墳を想像で造ったという意味ではありません。
残っていた地形、測量結果、調査で確認された墳丘の範囲をもとに、古墳の形を理解できるよう整えたものです。
ただし、当時の表面の状態や、埴輪の正確な配置まで完全に再現されているわけではありません。
現地では、保存された部分と整備された部分の両方から、文化財を未来へ残す方法について考えることができます。
埋葬施設は詳しく分かっていない
八幡塚古墳の大きな謎は、被葬者を納めた埋葬施設の詳細が分かっていないことです。
後円部の内部に石室や木棺が存在する可能性はありますが、発掘調査によって全体が確認されたわけではありません。
そのため、埋葬方法、副葬品、遺骨の有無などは確定していません。
古墳の調査では、すべてを掘ればよいわけではありません。
発掘は遺構を取り除きながら記録する作業でもあり、一度掘った状態を元に戻すことはできません。
将来の技術で、より少ない損傷によって内部を調べられる可能性もあります。
未調査部分を残すことは、分からないことを放置するのではなく、文化財を守るための重要な判断です。
被葬者は筑波国造だったのか
阿閉色命の墓とする説
つくば市の公式ページでは、八幡塚古墳が阿閉色命の墓と推定されていることが紹介されています。
阿閉色命は「あべしのみこと」と読み、筑波国造に関係する人物として伝えられています。
国造とは、古墳時代から飛鳥時代にかけて、地域を治めた有力者やその一族に与えられた地位を指します。
八幡塚古墳は桜川中流域最大規模であり、筑波地方を代表する首長墓です。
この規模と立地から、筑波国造級の人物が葬られた可能性が考えられています。
『常陸国風土記』に残る筑波の伝承
奈良時代に編さんされた『常陸国風土記』には、筑波という地名の由来に関する伝承が記録されています。
伝承では、筑簟命という人物が地域の国造として遣わされ、自分の名を土地に残すため、もとの地名を筑波に改めたとされます。
ただし、『常陸国風土記』が成立したのは、八幡塚古墳の築造から長い年月が過ぎた8世紀前半です。
記録には古い伝承が含まれますが、6世紀の出来事をそのまま正確に記録した同時代史料ではありません。
また、風土記の伝承に登場する人物と、後世の系譜に記された人物との対応には不明な点があります。
被葬者を断定できない理由
八幡塚古墳を筑波国造の墓とみる考えには、地域最大の規模、築造年代、筑波山麓という立地などの根拠があります。
そのため、有力な首長墓である可能性は高いといえます。
しかし、被葬者名を記した墓誌や文字資料は確認されていません。
埋葬施設も十分に調査されておらず、阿閉色命本人と結び付ける直接的な証拠はありません。
したがって、「阿閉色命の墓である」と事実として断定するのは適切ではありません。
現時点では、「筑波国造に関係する首長の墓とする説がある」「阿閉色命の墓と推定する見解が紹介されている」と表現するのが正確です。
八幡塚古墳に残る未解明の謎
本当の被葬者は誰なのか
最も大きな謎は、誰が葬られたのかという点です。
古墳の規模からは高い地位の首長が想定されますが、名前までは分かりません。
筑波国造の一族だった可能性はありますが、別の地域首長だった可能性も残されています。
人物名を確定するには、文字を記した資料や、系譜と考古資料を直接結び付ける証拠が必要です。
現在のところ、そのような決定的資料は確認されていません。
埋葬施設と副葬品の内容
後円部の内部構造も未解明です。
横穴式石室だったのか、竪穴系の埋葬施設だったのか、木棺や石棺が使われたのかについて、確定的な情報はありません。
6世紀前半は、地域によって埋葬方法が変化していた時期です。
内部構造が分かれば、八幡塚古墳を築いた集団が、どの地域と強い関係を持っていたのかを考える手がかりになります。
武器、馬具、装身具、鏡、土器などの副葬品が確認されれば、被葬者の立場や交流範囲を詳しく検討できるでしょう。
しかし、現段階では想像で補うことはできません。
周濠はどこまで広がっていたのか
大型古墳の周囲には、濠が巡らされる例があります。
八幡塚古墳の東側には八幡池がありますが、この池と古墳の周濠との関係は、資料によって推測を含む説明がみられます。
周濠とは、墳丘の周囲に設けられた堀のことです。
境界を示す役割や、墳丘を造る土を採取した跡としての性格が考えられています。
八幡池が古墳築造時の濠の一部を受け継いでいるのか、後世に大きく改変された池なのかについては、慎重な検討が必要です。
資料によって墳丘の長さが異なる理由
八幡塚古墳について調べると、全長約91メートルとする資料のほか、全長120メートルとする古い説明も見つかります。
現在のつくば市公式ページと茨城県の『常陸国風土記』関連ページでは、約91メートルとされています。
一方、茨城県教育委員会の文化財紹介ページには120メートルという記載が残っています。
前方部が大きく失われていた古墳では、古い測量と後の発掘・整備調査で推定範囲が変わることがあります。
また、墳丘本体だけを測るか、周囲の高まりまで含めるかによっても数値が変化します。
ただし、この古墳の数値差が具体的にどの理由によるものかは、公開ページだけでは断定できません。
ここでは、現在のつくば市と県の関連文化事業で採用されている約91メートルを基準にしています。
八幡塚古墳の歴史的価値
桜川中流域最大の首長墓
八幡塚古墳の重要性は、桜川中流域で最大規模とされる点にあります。
古墳の大きさは、築造に投入できた労働力や資源の大きさと関係します。
大量の土を運び、墳丘を形づくり、埴輪を製作して並べるには、多くの人々を組織する必要がありました。
そのため、この古墳は一人の有力者の墓であるだけでなく、6世紀前半の筑波地方に存在した社会組織の大きさを示す遺跡でもあります。
考古学と古代文献を結ぶ場所
八幡塚古墳の魅力は、発掘調査で確認された遺構と、『常陸国風土記』に残る筑波の伝承をあわせて考えられることです。
考古学は、墳丘、埴輪、地形などの物的証拠を調べます。
一方、風土記は、奈良時代の人々が地域の由来をどのように理解していたかを伝えます。
両者は同じ種類の資料ではありません。
文献の物語をそのまま古墳の被葬者に当てはめることはできませんが、異なる資料を比較することで、古代筑波の歴史像をより立体的に考えられます。
後世の信仰とともに残された古墳
後円部に八幡社が祀られたことも、この古墳の歴史を考えるうえで重要です。
古墳は築造後に役割を終えたのではなく、後世の人々によって神聖な高まり、地域の目印、祭祀の場所として受け継がれました。
神社が置かれたことで墳丘が守られた面がある一方、社殿の建設や参道整備が古墳に影響した可能性もあります。
文化財は、古代に造られた瞬間の姿だけでなく、その後どのように利用され、守られてきたかを含めて理解する必要があります。
八幡塚古墳は、古墳時代から現代まで続く地域の記憶を伝える場所です。
八幡塚古墳の見学情報
所在地とアクセス
- 名称:沼田八幡塚古墳
- 県指定名称:八幡塚
- 所在地:茨城県つくば市沼田374-1ほか
- アクセス:つくば駅・つくばセンター方面から、つくバス北部シャトルで筑波山口方面へ向かう方法があります。筑波山口から古墳までは徒歩圏ですが、運行時刻や経路は変更される可能性があるため、訪問前につくば市公式の時刻表を確認してください。
- 見学時間:屋外史跡のため、公式ページには開館時間の案内がありません。安全のため明るい時間帯の見学が適しています。
- 料金:公式ページには入場料金の案内がありません。
- 休館日:施設としての休館日の案内はありません。
- 特徴:6世紀前葉ごろに築かれた墳丘長約91メートルの前方後円墳で、桜川中流域最大規模とされています。
- 管理者:つくば市
- 問い合わせ先:つくば市教育局文化財課
現地で確認したい見どころ
見学では、最初に少し離れた位置から墳丘全体を眺めると、前方後円墳の形をつかみやすくなります。
木々に覆われた後円部と、整備された前方部の違いにも注目してください。
前方部は古代の姿がそのまま残った場所ではなく、調査結果をもとに復元された部分です。
説明板が設置されている場合は、現在の景観と図面を見比べると理解が深まります。
後円部に祀られた八幡社からは、古墳が後世の信仰と結び付いた歴史も感じられます。
周囲の筑波山や平地の広がりを見ることも大切です。
なぜこの場所に大型古墳が築かれたのかを、地形から考えることができます。
見学時の注意点
古墳は貴重な文化財です。
墳丘を削る、土器や埴輪らしい破片を持ち帰る、樹木や施設を傷つける行為は避けてください。
地表に遺物のようなものを見つけても、その場から動かさず、必要に応じてつくば市文化財課へ連絡するのが適切です。
周辺には農地や住宅があります。
私有地に入らず、農作業や地域住民の通行を妨げないようにしてください。
専用駐車場の有無を確認できない場合は、路上や農道への駐車を避け、公共交通の利用を検討しましょう。
雨の後は斜面や草地が滑りやすくなることがあります。
歩きやすい靴を用意し、夏は暑さ、冬は日没の早さにも注意してください。
八幡塚古墳に関するFAQ
八幡塚古墳はいつ頃造られましたか?
現在のつくば市と茨城県の案内では、6世紀前葉ごろに築かれたと考えられています。
古墳時代後期にあたり、墳丘長は約91メートルです。
八幡塚古墳には誰が葬られていますか?
詳しいことは分かっていません。
筑波国造に関係する有力者や阿閉色命の墓とする説がありますが、人物名を直接示す文字資料は確認されていません。
そのため、被葬者を断定することはできません。
八幡塚古墳の内部を見ることはできますか?
埋葬施設の内部が公開されている古墳ではありません。
内部構造そのものも十分には分かっていません。
見学では、墳丘の外観や前方部の復元、後円部の八幡社、周辺の地形を観察することが中心になります。
八幡塚古墳からは何が出土しましたか?
発掘・整備調査では埴輪が確認されています。
つくば市の公式説明では、近くの八幡池から髪を結った女性の埴輪が見つかったことも紹介されています。
一方、埋葬施設に納められた副葬品の全体像は分かっていません。
古河市の八幡塚古墳と同じ古墳ですか?
別の古墳です。
つくば市沼田の八幡塚古墳は、約91メートルの前方後円墳で県指定史跡です。
古河市の八幡塚古墳は、直径約40メートルの円墳で市指定史跡です。
まとめ
茨城県つくば市の八幡塚古墳は、6世紀前葉ごろに築かれた墳丘長約91メートルの前方後円墳です。
桜川中流域では最大規模とされ、古墳時代後期の筑波地方に大きな力を持つ首長がいたことを示しています。
発掘・整備調査では墳丘の形や埴輪が確認され、失われていた前方部は調査成果をもとに復元されました。
一方、埋葬施設や副葬品の全体像は分かっていません。
被葬者を阿閉色命や筑波国造に関係する人物とみる説がありますが、直接的な証拠がないため、現時点では有力者の墓という範囲を超えて断定できません。
後円部に八幡社が祀られたことで、古墳は後世の信仰とも結び付きました。
八幡塚古墳は、古代の政治や葬送だけでなく、地域の人々が史跡を受け継いできた歴史も伝えています。
現地を訪れる際は、復元された部分と古くから残る部分を見比べ、筑波山麓の地形とあわせて観察すると、この古墳の価値をより深く感じられるでしょう。
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