アプスーは、古代メソポタミアの神話に登場する原初的な存在です。
バビロニアの創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』では、塩水を表すティアマトと水を交え、最初の神々を生み出す男性的な存在として語られています。
ところが、シュメール語の文書に目を向けると、「アブズ」は地下に広がる淡水、エンキ神の住まい、神殿の聖域なども指します。
そのため、アプスーを単純に「淡水の神」とだけ説明すると、本来の複雑な意味が見えにくくなります。
また、『エヌマ・エリシュ』はアッカド語で書かれたバビロニアの作品であり、シュメール神話に同じ物語がそのまま存在したわけではありません。
この記事では、アプスーとアブズの違い、ティアマトやエンキとの関係、『エヌマ・エリシュ』で殺されるまでの経緯を整理します。
さらに、古代メソポタミアの人々が地下の淡水をどのように捉えたのか、神なのか場所なのかという疑問にも、史料と学説を分けながら分かりやすく解説します。
アプスーとは何か
アプスーの基本情報
- 名称:アプスー
- アッカド語表記:apsû、apsu
- シュメール語の対応語:abzu(アブズ、アブズー)
- 主な意味:地下にある原初の淡水、淡水を人格化した存在、エアまたはエンキの住まい
- 主な登場作品:バビロニアの創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』
- 関係の深い神々:ティアマト、エア(エンキ)、マルドゥク、ムンム
- 関係の深い都市:メソポタミア南部の古代都市エリドゥ
アプスーは、『エヌマ・エリシュ』の冒頭で、天地がまだ名づけられていなかった時代から存在するものとして描かれています。
同作におけるアプスーは、神々の祖先であると同時に、生命を支える淡水そのものでもあります。
ただし、メソポタミアの文書全体を通じて、常に人間のような姿を持つ一柱の神として扱われているわけではありません。
文脈によっては地下の水域であり、エンキの領域であり、神殿内の聖なる場所や水を入れる設備でもあります。
「淡水の神」という説明だけでは不十分
一般向けの神話紹介では、アプスーが「淡水の男神」、ティアマトが「塩水の女神」と説明されることがあります。
これは『エヌマ・エリシュ』の物語を理解するうえでは便利ですが、アプスーという語のすべての用法を表してはいません。
アッカド語のアプスーは、地下にある淡水の大きな水域を指す普通名詞としても用いられました。
シュメール語のアブズについても、ペンシルベニア大学の楔形文字語彙資料では、「宇宙的な地下水」「湿地の可能性」「神殿の儀礼用水容器」などの意味が整理されています。
したがって、神話の登場人物として説明するときは「淡水を人格化した原初的存在」とするのが比較的正確です。
一方、シュメール文学や神殿について述べる場合は、「地下の淡水領域」や「エンキの聖域」という意味も考える必要があります。
アブズとアプスーの違い
シュメール語のアブズが先に使われた
「アブズ」はシュメール語、「アプスー」はアッカド語で用いられた形です。
楔形文字の表記や発音の歴史は複雑ですが、一般向けには、シュメール語のabzuがアッカド語に取り入れられてapsûになったと理解すると分かりやすいでしょう。
日本語では、アブズ、アブズー、アプスー、アプスなど複数の表記が見られます。
表記が異なっていても、地下の淡水やエンキの領域という共通した背景を持っています。
ただし、物語の中で男性的な原初存在として行動するアプスーと、場所や水域としてのアブズを、すべて同じ人格神として扱うのは適切ではありません。
シュメール神話では主にエンキの領域として現れる
シュメール文学では、アブズは知恵と淡水を司るエンキ神と強く結びついています。
『エンキと世界秩序』では、エンキが「アブズの王」として称賛され、その大いなる家がアブズに基礎を置くと歌われています。
同作品には、エンキがエリドゥのアブズに自らの聖所を築き、そこに神官、聖歌、呪文、舟、魚、葦の茂みなどが集まる描写もあります。
この場合のアブズは、一柱の神の名前というより、エンキが支配する水と神殿の聖域です。
シュメールの文書にアブズが出てきたからといって、そこに必ず『エヌマ・エリシュ』のアプスーが登場しているとは限りません。
アッカド語文学では人格化がはっきりする
アッカド語で書かれた『エヌマ・エリシュ』では、アプスーが意思を持って発言し、計画を立てる存在として描かれています。
ティアマトと語り合い、側近ムンムの助言を喜び、若い神々を滅ぼそうとするため、物語上は人格を持つ原初神として読むことができます。
それでも、エアに倒された後には、アプスーという名が再び水域や住まいを表すようになります。
人格と場所が切り離されずに重なっている点が、アプスーの大きな特徴です。
「アッカド神話」はアッカド帝国時代だけを意味しない
『エヌマ・エリシュ』はアッカド語で記されたバビロニアの創世叙事詩です。
ここでいうアッカド語は、古代メソポタミアで長く使われたセム語系の言語を指します。
そのため、「アッカド神話」と呼ばれる場合でも、紀元前24世紀ごろに成立したアッカド帝国の時代だけに限定されるわけではありません。
バビロニアやアッシリアでアッカド語によって伝えられた神話を、広い意味でアッカド神話に含めることがあります。
『エヌマ・エリシュ』を紹介するときは、「アッカド語で書かれたバビロニア神話」と説明すると、時代と文化の混同を避けやすくなります。
シュメール神話におけるアブズ
エリドゥとエンキ信仰の中心地
アブズを理解するうえで重要なのが、メソポタミア南部の古代都市エリドゥです。
エリドゥではエンキが都市神として信仰され、その神殿はエ・アブズ(E-abzu)、つまり「アブズの家」と呼ばれました。
シュメール文学には、エンキの神殿をエ・エングラ(E-engura)と呼ぶ例もあります。
エングルまたはエングラも深い水と関係する語で、作品の中ではアブズと密接に結びついています。
『エンキのニップルへの旅』では、神殿の基礎杭がアブズに打ち込まれ、エンキの聖所が水の上に浮かぶ山のように表現されています。
これは実際の建築構造をそのまま記録した図面ではなく、神殿を宇宙的な水の力と結びつける宗教的表現です。
アブズは知恵・秩序・豊かさの源
エンキは、淡水だけでなく、知恵、技術、呪術、秩序づくりにも関わる神です。
その住まいであるアブズも、単なる暗い深淵ではなく、世界を豊かに保つ力の源として描かれました。
『エンキと世界秩序』では、エンキが河川、湿地、農耕、家畜、都市、職能などを整え、さまざまな神々に役割を割り当てます。
作品の中心はアブズそのものの誕生ではありませんが、アブズの主であるエンキが、豊かさと秩序をもたらす存在であることが分かります。
乾燥しやすい土地で農耕を続ける人々にとって、制御された淡水は生命と社会を支える基盤でした。
その現実的な重要性が、神話の中では知恵や創造力と結びついたと考えられます。
人間創造の材料とも結びつく
シュメール語作品『エンキとニンマフ』では、原初の母ナンマがエンキを起こし、神々の労働を代わる人間を造るよう求めます。
エンキは、アブズの上にある粘土をこねて人間を形づくるよう提案します。
この記述では、アブズは人類の材料となる粘土が得られる場所と結びついています。
ただし、この物語のアブズが男性神としてティアマトと神々を生むわけではありません。
原初の母として登場するのはナンマであり、創造の筋書きも『エヌマ・エリシュ』とは異なります。
この違いは、メソポタミアに唯一の創世神話があったのではなく、都市、時代、目的によって複数の物語が伝えられていたことを示します。
『エヌマ・エリシュ』に登場するアプスー
天地が生まれる前にアプスーとティアマトがいた
『エヌマ・エリシュ』は、「上なる天がまだ名づけられず、下なる大地にも名がなかった時」という意味の言葉で始まります。
この段階では、都市や葦原だけでなく、神々の名前や運命もまだ定まっていません。
そこに存在したのが、神々を生み出すアプスーと、すべてを産んだティアマトです。
アプスーは淡水、ティアマトは塩水の海を表すと一般的に解釈されています。
二つの水が混じり合う中から、ラフムとラハム、アンシャルとキシャル、アヌ、エアへと神々の世代が続きます。
ここで重要なのは、世界が完全な無から造られるのではなく、原初の水が先に存在していることです。
アプスーは宇宙が形を得る以前の素材であり、神々の系譜の出発点でもありました。
若い神々の騒音が争いの原因になる
新しく生まれた神々は活発に動き、その騒がしさによってアプスーとティアマトの静けさを乱します。
アプスーは昼も夜も休めないと訴え、若い神々を滅ぼして静けさを取り戻そうとしました。
これに対し、ティアマトは自分たちが生み出した者を滅ぼすことに反対し、苦しくても耐えようと語ります。
この場面だけを見れば、ティアマトが最初から破壊を望む悪の存在だったとはいえません。
アプスーの側近ムンムは、若い神々を排除する計画を支持します。
アプスーはその助言を喜びますが、計画は若い神々に知られてしまいます。
エアが魔術によってアプスーを倒す
神々の中でも知恵に優れたエアは、アプスーの計画に対抗します。
エアは呪文を用いてアプスーを深い眠りに落とし、その輝きや権威を奪ったうえで殺します。
さらに、ムンムを捕らえて拘束し、アプスー側の計画を完全に止めました。
この勝利は、力だけによる戦いではなく、知恵と呪術によって古い世代の脅威を制圧する物語になっています。
シュメール神話のエンキとアッカド語神話のエアは、基本的に対応する神です。
そのため、「エンキがアプスーを殺した」と説明されることもありますが、『エヌマ・エリシュ』のアッカド語名に合わせるならエアとする方が分かりやすいでしょう。
倒されたアプスーがエアの住まいになる
アプスーを倒したエアは、その場所に自らの住まいを定めます。
物語では、倒された原初存在の名が、そのままエアの聖なる領域の名として残ります。
ここには、アプスーが人格と空間の両方であるという特徴がよく表れています。
「アプスーの死」を淡水そのものの消滅と考える必要はありません。
むしろ、制御されていなかった原初の淡水が、知恵の神エアの支配下に置かれたと読むことができます。
ただし、これは物語の構造から導かれる解釈であり、本文に現代的な言葉で明記されているわけではありません。
アプスーの中心でマルドゥクが誕生する
エアとその配偶神ダムキナの間には、バビロンの都市神マルドゥクが生まれます。
『エヌマ・エリシュ』は、マルドゥクがアプスーの奥深くで誕生したと語ります。
アプスーはマルドゥクにとって、祖先の名であると同時に誕生の場所でもあるのです。
この後、マルドゥクはティアマトとの戦いに勝利し、神々の頂点に立ちます。
そのため、アプスーをめぐる最初の争いは、物語全体の主人公であるマルドゥクの登場を準備する役割も果たしています。
アプスーとティアマトの関係
二柱は原初の水を表す対になる存在
『エヌマ・エリシュ』におけるアプスーとティアマトは、原初の夫婦に近い関係として描かれます。
アプスーが淡水、ティアマトが塩水を表し、二つの水が混じることで神々が生まれます。
これは、河川の淡水と海水が出会うメソポタミア南部の環境を思わせるため、自然環境との関係が指摘されてきました。
一方で、神話の記述を特定の海岸や河口の観察だけから直接作られたものと断定することはできません。
水の混合は、まだ区別や境界が成立していない原初状態を示す宗教的表現でもあります。
淡水が善で塩水が悪という物語ではない
アプスーとティアマトを、善と悪の対立として理解するのは適切ではありません。
最初に若い神々の滅亡を計画するのはアプスーであり、ティアマトはその計画に反対しています。
アプスーが殺された後、ティアマトは若い神々への戦いに加わり、怪物たちを生み出します。
その結果、後半ではマルドゥクに倒される敵となりますが、初めから悪の女神として存在したわけではありません。
物語が描くのは、水の善悪ではなく、古い世代と新しい世代、静けさと活動、原初状態と新しい秩序の衝突です。
アプスーの死がティアマトとの大戦につながる
アプスーが殺された直後、ティアマトがただちに復讐へ動くわけではありません。
その後、神々が再びティアマトを乱し、仲間たちがアプスーの死に対して行動しなかったことを責めます。
ティアマトはついに戦いを決意し、複数の怪物を生み、キングーを軍勢の指揮者に任命します。
マルドゥクは神々から最高の権威を与えられることを条件に戦いを引き受け、ティアマトを倒します。
したがって、アプスーの死は創世叙事詩の終点ではなく、マルドゥクとティアマトの宇宙的な戦いを導く最初の転換点です。
アプスーとエンキ・エアの関係
エンキとエアは異なる名前を持つ対応神
エンキはシュメール語の名で、エアは主にアッカド語で使われる名です。
両者は完全に別の神ではなく、メソポタミアの長い宗教史の中で対応する同一系統の神として扱われました。
知恵、呪術、淡水、創造、職人の技術などが主な性格です。
シュメール文学ではエンキがアブズの主として最初からそこに住み、『エヌマ・エリシュ』ではエアが人格化されたアプスーを倒してその領域を住まいにします。
二つの伝承は共通する水の神学を持っていますが、同じ筋書きを語っているわけではありません。
なぜ淡水を表すアプスーが淡水神エアに殺されるのか
一見すると、淡水に関わる存在同士が争うことは矛盾しているように見えます。
しかし、『エヌマ・エリシュ』では、原初の力を新しい世代の神が受け継ぎ、制御する構図が繰り返されます。
エアはアプスーの力を消し去るのではなく、その権威を奪い、住まいとして自らの秩序に組み込みます。
この展開により、制御されない原初の淡水と、知恵によって管理される生命の水が区別されます。
有力な読み方の一つでは、アプスーの敗北は、水の消滅ではなく、水を管理する正統な神がエアになったことを示しています。
ただし、『エヌマ・エリシュ』は同時にマルドゥクの最高神化を語る作品であり、自然現象の説明だけに還元することはできません。
古代メソポタミアの宇宙観とアプスー
地上の下に淡水が広がると考えられた
古代メソポタミアの宇宙観は、時代や文書によって細部が異なります。
そのため、すべての人が同じ一枚の宇宙図を共有していたと断定することはできません。
それでも、多くの文書では、地上の下に淡水の領域アプスーがあり、エアがそこに住むという考えが確認されています。
天の上、大地、人間の住む地表、死者の世界、地下の水は、それぞれ関係しながら宇宙を構成していました。
アプスーは地下世界そのものと同一ではなく、冥界の国イルカラやクルとも区別して考える必要があります。
地下にあるという共通点だけで、アプスーを死者の国や地獄と説明するのは誤りです。
泉・井戸・河川の水源を説明する役割
雨が少ない時期にも、泉や井戸から水が得られることは、古代人にとって重要な現象でした。
地下に大きな淡水の源があるという考えは、地中から現れる水を神話的に説明します。
また、ティグリス川とユーフラテス川、運河、湿地は、農業、交通、漁業、葦の採取に欠かせませんでした。
水は命を与える一方、洪水や湿地の変化によって生活を脅かす力でもあります。
アプスーの豊かさと危険性が重なる性格は、こうした水との深い関わりから理解できます。
アプスーは「混沌」だけを意味しない
『エヌマ・エリシュ』の原初の水は、まだ境界が分かれていない状態を表します。
このため、アプスーとティアマトをまとめて「混沌の海」と呼ぶことがあります。
しかし、アブズはシュメール文学では、エンキの知恵、豊かさ、正しい運命、清めの儀礼とも結びついています。
アプスーを破壊だけを生む暗黒の深淵とみなすと、生命を育てる淡水という重要な面が失われます。
秩序以前の力でありながら、新しい秩序を支える源にもなるという二重性が、アプスーの特徴です。
神殿と儀礼におけるアブズ
エンキの神殿そのものを指す場合がある
シュメールの賛歌では、アブズがエンキの神殿やその中心的な聖域を指す例があります。
『エンキのニップルへの旅』は、エリドゥの神殿をアブズの聖所、国に生命を与える場所、運命が定められる清らかな場所として称賛します。
これは、地下の宇宙的な淡水と地上の神殿が、宗教的に連続していると考えられたことを示します。
神殿は単なる礼拝施設ではなく、神の住む宇宙的領域を地上に表す場所でした。
エンキの神殿がアブズと呼ばれることには、そのような象徴性があります。
『エヌマ・エリシュ』の朗誦と新年祭
後代の祭儀文書には、バビロンの新年祭で『エヌマ・エリシュ』を朗誦したことを示す記録があります。
一般的には、アキトゥ祭の第4日に作品が読まれたと説明されています。
その朗誦は、マルドゥクがティアマトに勝利して世界の秩序を確立する物語を、都市と王権の秩序に結びつける役割を持ったと考えられています。
一方、『エヌマ・エリシュ』が最初から新年祭のために作られたのか、後に祭儀へ組み込まれたのかについては、研究上の議論があります。
アプスーの物語も、単なる昔話ではなく、神殿で共有される宗教的知識の一部だった可能性が高いといえます。
『エヌマ・エリシュ』の成立と粘土板
全7書板からなるバビロニアの創世叙事詩
『エヌマ・エリシュ』は、全7書板で構成されるアッカド語の長編作品です。
アプスーが大きく関わるのは第1書板で、その後はティアマトの軍勢、マルドゥクの勝利、宇宙と人間の創造、マルドゥクの称号へと物語が進みます。
現在知られている本文は、一枚の完全な粘土板から読まれたものではありません。
ニネヴェ、アッシュル、バビロンなどで見つかった複数の写本や断片を比較し、欠けた部分を補いながら復元されています。
大英博物館には、ニネヴェのアッシュルバニパル王の文書群に属する新アッシリア時代の断片が複数所蔵されています。
同館のK.5419.cは、第1書板に属する創世伝承の断片として登録されており、アプスーの物語が粘土板で伝えられたことを示す実物史料の一つです。
成立年代には見解の幅がある
『エヌマ・エリシュ』の正確な成立時期は、作品内に明確な執筆年が記されていないため、完全には確定していません。
有力な説では、バビロンの守護神マルドゥクの地位が大きく高まった紀元前2千年紀後半に、現在の形が整えられたと考えられています。
メトロポリタン美術館の解説は、紀元前12世紀後半のネブカドネザル1世の治世か、その少し後に編纂された可能性を挙げています。
一方、より早い時期や異なる成立過程を想定する研究もあり、細かな年代については意見が分かれています。
現存する主要写本の多くが成立推定時期より後の写しであることも、年代の判断を難しくしています。
シュメール神話をそのまま翻訳した作品ではない
『エヌマ・エリシュ』には、原初の水、世代の異なる神々の争い、エンキまたはエアの知恵といった、シュメール以来の伝統が取り入れられています。
しかし、現時点で、アプスーとティアマトの物語を同じ順序で語る完全なシュメール語版は確認されていません。
バビロニアの書記たちは古い神話要素を受け継ぎながら、マルドゥクを最高神として位置づける新しい作品を形づくりました。
そのため、『エヌマ・エリシュ』を「シュメール創世神話の翻訳」と呼ぶのは不正確です。
シュメールの伝統を継承しつつ、バビロン独自の神学と政治的背景を反映した創世叙事詩と考えるのが適切です。
アプスーの歴史的・文化的な意味
原初の水とバビロンの秩序を結ぶ物語
アプスーは、ただ倒される敵役ではありません。
その水から神々が生まれ、死後も領域はエアの住まいとして存続し、その中心からマルドゥクが誕生します。
古い力が完全に消えるのではなく、新しい世代の秩序へ組み込まれる点が重要です。
『エヌマ・エリシュ』は宇宙の起源とともに、なぜバビロンの守護神マルドゥクが神々の王なのかを語ります。
また、生命を育てながら危険ももたらすアプスーの性格には、水を単純な善悪に分けなかった古代メソポタミアの人々の見方が表れています。
アプスーに関するFAQ
アプスーは何の神ですか?
『エヌマ・エリシュ』では、アプスーは原初の淡水を人格化した男性的な存在です。
ただし、シュメール語のアブズとアッカド語のアプスーは、地下の淡水領域、エンキまたはエアの住まい、神殿の聖域を指す場合もあります。
そのため、「淡水の神」だけでなく、「神格化された原初の淡水」と理解するのが適切です。
アプスーとアブズは別の存在ですか?
語源的・概念的には深くつながっており、シュメール語のアブズに対応するアッカド語形がアプスーです。
ただし、文書の文脈によって意味が異なります。
場所や地下水を指すアブズと、『エヌマ・エリシュ』で会話し行動するアプスーを、常に同じ一柱の神として扱うことはできません。
アプスーを殺したのは誰ですか?
『エヌマ・エリシュ』では、知恵と呪術の神エアがアプスーを眠らせて殺します。
エアはシュメール神話のエンキに対応するため、一般向け資料では「エンキが殺した」と説明されることもあります。
アッカド語作品内の名称に合わせる場合は、エアとするのが自然です。
アプスーとティアマトの間に生まれた神は誰ですか?
物語では、混じり合った二柱の水の中から、まずラフムとラハムが生まれます。
その後、アンシャルとキシャル、アヌ、エアへと世代が続き、エアとダムキナの子としてマルドゥクが誕生します。
系譜の細かな説明は翻訳によって表現が異なりますが、アプスーとティアマトが神々の最古の世代に位置する点は共通しています。
アプスーは冥界や地獄と同じですか?
同じではありません。
アプスーは地上の下にある淡水の領域で、エアの住まいと考えられました。
死者が向かう冥界はイルカラ、クルなどの名で語られ、アプスーとは役割が異なります。
地下にあるという一点だけで両者を同一視しないよう注意が必要です。
まとめ
アプスーは、古代メソポタミアの宇宙観において、地上の下に広がる原初の淡水を表します。
シュメール語ではアブズと呼ばれ、主にエンキの住まい、豊かさと知恵の源、神殿の聖域として現れます。
アッカド語のバビロニア創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』では、アプスーはティアマトと水を交え、神々の世代を生み出す人格的な存在です。
若い神々を滅ぼそうとしたアプスーはエアに倒されますが、その名と水の領域は消えません。
アプスーはエアの住まいとなり、その奥深くでマルドゥクが誕生します。
確認されている粘土板からは、この物語が後代のバビロニアとアッシリアで繰り返し写され、読まれたことが分かります。
一方、『エヌマ・エリシュ』の正確な成立年代や、シュメールの伝統から現在の形へ至る過程には、なお研究上の議論が残っています。
アプスーを理解する鍵は、「淡水の神」か「地下の海」かのどちらか一方に決めることではありません。
神、自然の力、宇宙の領域、神殿の聖所という複数の意味が重なっているからこそ、アプスーは古代メソポタミアの水と創造の思想を伝える重要な存在なのです。
主な出典元




