ナバテア人は、古代のアラビア半島と地中海世界を結ぶ交易で栄えた人々です。
ヨルダンのペトラに残る壮大な岩窟建築はよく知られていますが、彼らの暮らしは隊商や墓だけでは語れません。
乾燥地で都市と農地を維持した水の利用、離れた土地に残る碑文からは、社会の別の姿が見えてきます。
ここでは、ナバテア人の歩みを、ペトラやヘグラの遺跡と研究資料をもとにたどります。
ナバテア人とはどのような人々か
アラビアから来た人々と王国の成立
ナバテア人はアラビアに起源をもつ人々で、かつては移動を伴う暮らしをしていたと考えられています。
ただし、集団がいつ、どこから、どのような経路で移ったのかを細部まで確定できる資料はありません。
メトロポリタン美術館によると、紀元前312年には現在のヨルダン南部に定着しており、このころペトラは重要な拠点になっていました。
その後、ペトラを中心とするナバテア王国が発展します。
勢力は時期によって変わりましたが、現在のヨルダンからシナイ半島、ネゲヴ、アラビア半島北西部などに及びました。
紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて、王国と首都ペトラは特に繁栄しました。
ペトラはなぜ交易の拠点になったのか
ペトラは、南アラビアから地中海方面へ向かう隊商路の結節点にありました。
代表的な商品は、南アラビアで産出された乳香と没薬です。
乳香と没薬は樹脂から得られる香料で、古代の宗教儀礼などに使われました。
インド洋交易で運ばれた品々も、この広い交易網を通じて西へ向かいました。
ナバテア人は商品をすべて自ら生産したのではなく、隊商路と中継地を生かして各地をつなぎました。
現在のイスラエル南部に残るネゲヴの町や隊商宿の遺跡は、ペトラから地中海沿岸へ続く道の存在を伝えています。
砂漠の都市で人々はどう暮らしたのか
ペトラの水路と住まい
ペトラを支えたのは、岩を削る技術だけではありません。
水路、貯水槽、ダムなどを組み合わせ、雨水や水源からの水を集めて分配していました。
世界遺産の説明では、この仕組みが都市の形成を可能にした点も高く評価されています。
ペトラには岩窟墓のほか、神殿、街路、住居もありました。
ヨルダンの公式観光案内は、石造りの家や岩を掘った住まい、灌漑された庭園の存在を紹介しています。
目立つ岩窟墓だけを見て「死者の町」と考えると、日々の生活が営まれた都市としての姿を見落としてしまいます。
ヘグラでは井戸と農業が暮らしを支えた
サウジアラビア北西部のヘグラは、王国の南側に位置した都市です。
フランス文化省が紹介する現地調査では、130を超える井戸が確認されています。
発掘された植物の痕跡からは、ナツメヤシの下で果樹を育て、さらに下層で穀物や豆類を栽培する、オアシスの農業も明らかになりました。
ペトラでは導水と貯水、ヘグラでは井戸と地下水が特に目立ちます。
両遺跡を比べると、ナバテア人が各地の水の条件に合わせて暮らしていたことが分かります。
ペトラから地中海へ向かうネゲヴの町々でも、集水施設や農地の跡が確認されています。
交易と農業は、離れた活動ではありませんでした。
遺跡と碑文は何を伝えるのか
ペトラとヘグラに残る岩窟墓
ペトラの建造物は、すべてが岩を掘ったものではありません。
世界遺産の説明には、岩窟墓に加えて、独立した建物や水利施設も挙げられています。
一方、ヘグラでは保存状態のよい111基の記念碑的な墓が確認され、そのうち94基には装飾された正面が残っています。
ヘグラの墓の一部には、所有者や制作年などを示す碑文があります。
フランス文化省によると、装飾された墓のおよそ3分の1には、このような法的性格をもつ碑文が刻まれています。
墓は建築の技術を伝えるだけでなく、家族や埋葬の権利を知る資料でもあるのです。
碑文研究では、女性を所有者とする墓も確認されています。
ただし、そこからナバテア社会の男女の地位が一律に同じだったと結論づけることはできません。
神々の表し方と外来文化
ナバテア人はドゥシャラなどの神々を信仰しました。
ペトラでは、神を人の姿に彫った像だけでなく、神聖な石によって表す例も知られています。
一方、建築の装飾にはギリシアなどの影響が見られます。
交易で異なる地域と接しながら、在来の信仰と外来の表現を組み合わせていたことが、遺構や彫刻からうかがえます。
信仰の物語をまとめたナバテア人自身の文献は見つかっていないため、神々の関係や儀礼のすべてが分かっているわけではありません。
ナバテア文字はアラビア文字とどうつながるのか
ナバテア人が残した碑文には、アラム文字から発達したナバテア文字が使われています。
ペトラ博物館によると、王国の旧領では約6000件のナバテア語碑文が記録されています。
ただし、そのおよそ9割は人名や短い挨拶などです。
王国の歴史や宗教を詳しく記した文学作品が現存しないことも、分からない点が多い理由の一つです。
文字の形は後の時代にも変化を続け、アラビア文字の成立につながりました。
これは文字の歴史についての話です。
ナバテア文字と、現在のアラビア語という言語を同じものとして扱うのは正確ではありません。
ローマ編入でナバテア人は姿を消したのか
王国の終わりと続いた都市生活
ナバテア王国は紀元106年、トラヤヌス帝のもとでローマ帝国に編入されました。
これで王国としての独立は終わりますが、人々の生活や文化が同じ年に消えたわけではありません。
ペトラにはローマ時代の建造物が残り、ヘグラではローマ兵の碑文や駐屯地が確認されています。
ペトラ博物館は、ナバテア文字が王国の終焉後も使われ、紀元356年の碑文がヘグラに残ると説明しています。
ペトラの都市としての姿や交易上の地位は、その後の時代に徐々に変化しました。
一つの出来事だけを「ナバテア文明の消滅理由」とすることはできません。
イタリアの港に残ったナバテア人の痕跡
ナバテア人の活動は、王国の領内だけに限られませんでした。
2023年、イタリアのプテオリ港跡で行われた水中調査によって、ナバテア人に関わる神殿の一部が調べられました。
祭壇などには、ドゥシャラに捧げたことを示すラテン語の銘文が残っています。
調査報告は、この遺構を港の交易に参加したナバテア人の集団を示す証拠と捉えています。
ペトラの神を地中海沿岸でも祭り、現地の言語や建築の様式も用いていたのです。
交易品だけでなく、人と信仰も長い道を移動したことが分かります。
ナバテア人についてのよくある疑問
ペトラのエル・ハズネは本当に宝物庫だったのですか?
「宝物殿」と呼ばれる名称は、壺に宝が隠されているという地元の伝承に由来します。
ヨルダンの公式観光案内は、建物を墓廟と説明しています。
建造された詳しい時期や、誰のための建物だったかについては議論があり、「宝物庫」として使われたことを示す名前ではありません。
まとめ
ナバテア人は、南アラビアと地中海世界を結ぶ交易を担い、ペトラを中心に王国を築きました。
遺跡には岩窟墓だけでなく、水路、井戸、農地、住居も残っています。
ヘグラの碑文やイタリアの港の神殿は、家族の権利や遠方で活動した人々についても教えてくれます。
紀元106年に王国はローマに編入されましたが、文字や暮らしはその後も続きました。
文献が限られるため、起源の細部や信仰の全体像には不明な点が残っています。
各地の遺構を比べることが、この交易民の姿をより具体的に知る手がかりになります。
参考にした公式・関連資料
- UNESCO World Heritage Centre:Petra(ペトラ)
- UNESCO World Heritage Centre:Hegra Archaeological Site (al-Hijr / Madā ͐ in Ṣāliḥ)(ヘグラ遺跡、仮訳)
- UNESCO World Heritage Centre:Incense Route – Desert Cities in the Negev(乳香の道とネゲヴの砂漠都市群、仮訳)
- フランス文化省・Archéologie:Hegra(ヘグラ)
- ペトラ博物館:Nabataean Expressions(ナバテア人の表現、仮訳)
- ペトラ博物館:Waning of Petra(ペトラの衰退、仮訳)
- メトロポリタン美術館:Nabataean Kingdom and Petra(ナバテア王国とペトラ、仮訳)
- メトロポリタン美術館:The World between Empires: Exhibition Galleries(帝国間の世界:展示室、仮訳)
- マンチェスター大学・研究情報:Hatoon Alfassi, The Taymanite Tombs of Mada’in Sahli/Hegra(マダーイン・サーリフ/ヘグラのタイマー人の墓、仮訳)
- Antiquity(ケンブリッジ大学出版局):Michele Stefanileほか、The submerged Nabataean temple in Puteoli at Pozzuoli, Italy: first campaign of underwater research(イタリア・ポッツオーリのプテオリ港に沈むナバテア人神殿:最初の水中調査、仮訳)
- Petra Development and Tourism Region Authority:Al Khazna (The Treasury)(エル・ハズネ、宝物殿、仮訳)


