亀の子塚古墳は、栃木県芳賀郡芳賀町の行事神社境内に残る古墳です。
首を伸ばした亀のように見えることから、「亀の子山」とも呼ばれてきました。
しかし、かわいらしい名前とは対照的に、誰が葬られたのか、埋葬施設がどのような構造だったのかなど、まだ分かっていない点が少なくありません。
また、栃木県内には壬生町にも同名の古墳があり、検索すると両者の情報が混ざりやすいので注意が必要です。
ここでは、芳賀町西高橋の県指定史跡を中心に、墳丘の形や築造年代、調査状況、五行川流域に築かれた意味、見学時のポイントを紹介します。
亀の子塚古墳とは
芳賀町西高橋にある県指定史跡
亀の子塚古墳は、栃木県芳賀郡芳賀町大字西高橋に位置しています。
後方部の墳頂には行事神社が祀られ、くびれ部から前方部の端までは神社の参道として使われています。
1957年2月15日に栃木県指定記念物の史跡となりました。
現在の景観は、古墳として築かれた墳丘と、後世に形成された神社の境内が重なったものです。
古墳時代の姿が完全に復元されているわけではありませんが、墳丘の高低差や細長い前方部から、独特の形を観察できます。
4世紀に築かれた芳賀町最古級の古墳
栃木県の文化財紹介サイトでは、亀の子塚古墳は4世紀に築かれたと考えられています。
芳賀町に残る古墳の中でも最古級に位置づけられる、古墳時代前期の前方後方墳です。
ただし、詳しい年代を示す副葬品や土器がまとまって確認されたという公式情報はありません。
築造時期は、主に墳丘の形や周辺の古墳との比較から推定されている点を押さえておく必要があります。
亀の子塚古墳の形と大きさ
全長約56.3メートルの前方後方墳
亀の子塚古墳は、前方部と後方部を組み合わせた全長約56.3メートルの墳丘です。
南北方向に主軸を持ち、後方部は幅約31.5メートル、高さ約4.6メートルあります。
前方部は幅約17.3メートル、高さ約2.3メートルで、後方部よりも低く、細長く造られています。
全国遺跡報告総覧の集成データでは、前方部の長さは約23.3メートル、くびれ部の幅は約16メートル、墳丘付近の標高は約101メートルと記録されています。
前方後方墳とは、上から見たときに前方部と後方部の両方が方形に見える古墳です。
後方部が円形になる前方後円墳とは、後ろ側の形が異なります。
なぜ亀のように見えるのか
前方部が低く長く伸び、その後ろに高く幅広い後方部が続くため、全体が首を伸ばして這う亀のように見えます。
この姿から、古くから「亀の子山」と呼ばれるようになったと伝えられています。
「亀」という名前は古代の祭祀や被葬者を示すものではなく、後世の人々が墳丘の外観から付けた呼び名です。
現在は前方部に鳥居と参道、後方部に社殿があるため、上空から見た古墳本来の輪郭を地上だけで把握するのは簡単ではありません。
それでも、参道を進みながら前方部と後方部の高さの違いを見ると、名前の由来を想像しやすくなります。
公式資料でも墳形の表記が分かれている
亀の子塚古墳について調べると、「前方後方墳」と「前方後円墳」の両方の表記が見つかります。
芳賀町の公式ページと栃木県の「とちぎいにしえの回廊」は、方形の後方部を持つ前方後方墳と説明しています。
一方、栃木県指定文化財の一覧には「前方後円型」、県の文化財検索ページには「前方後円墳」という表記が残っています。
同じ文化財検索ページでも、寸法を説明する部分では「後方部」と記されており、資料間で表現が統一されていません。
表記が分かれた理由は公式資料から確認できないため、どちらかを単純な誤記と断定することはできません。
ここでは、芳賀町と県の詳しい現行解説に従い、「前方後方墳」として紹介します。
亀の子塚古墳が築かれた場所
五行川を望む宝積寺台地の東端
亀の子塚古墳は、鬼怒川と五行川に挟まれ、南北に延びる宝積寺台地の東端に築かれています。
全国遺跡報告総覧には、墳丘の東側に平坦面があり、西側は傾斜面になっていると記録されています。
2026年に公表された地域研究でも、亀の子塚古墳は五行川の低地を見下ろす位置にあると整理されています。
この立地から、台地と低地の境界が古墳を理解する重要な手がかりになることが分かります。
ただし、立地だけを根拠に、被葬者が五行川の水運や流域全体を支配していたと断定することはできません。
周辺の前方後方墳と合わせると見える地域性
2026年に公表された栃木県域・群馬県域の前方後方墳に関する研究では、西高橋亀の子塚古墳が鬼怒川流域の古墳分布の中に位置づけられています。
同研究は、亀の子塚古墳の東側に広がる祖母井台地にも、八ツ木浅間山古墳や上根二子塚古墳群などの前方後方墳が分布することを示しています。
広い地域で見ると、亀の子塚古墳は孤立した一例としてではなく、鬼怒川・五行川周辺の台地に前方後方墳が展開した景観の中で捉えられます。
一方で、これらの古墳が同じ一族によって順番に築かれたのか、それぞれの被葬者がどのような関係にあったのかまでは分かっていません。
国立歴史民俗博物館の共同研究でも、古墳時代前期の下野では前方後方墳が重要な位置を占め、地域の有力者たちが外部の文化を一方的に受け入れたのではなく、交流相手や文化要素を主体的に選んだ可能性が検討されています。
ただし、これは下野地域全体を対象にした研究上の見方であり、亀の子塚古墳の被葬者や政治関係を直接証明するものではありません。
調査で分かっていることと未解明点
1987年に実地確認が行われている
全国遺跡報告総覧には、1987年3月に「実査」が行われた記録があります。
実査とは、現地で墳丘の形や状態などを確認する調査を指す言葉で、必ずしも墳丘を掘る発掘調査と同じではありません。
公開されている集成データからは、墳丘の方位、各部の寸法、地形との関係、削平を受けた部分などを確認できます。
古墳の東側のくびれ部付近は、記念碑の設置などに伴って平らに整えられていますが、県の文化財紹介では全体の保存状態は比較的良好とされています。
周溝の存在は確定していない
周溝とは、墳丘の周囲に巡らされた溝のことです。
芳賀町の公式解説では、亀の子塚古墳の周溝跡は不明とされています。
一方、栃木県の「とちぎいにしえの回廊」は、後方部の北側から北西側にかけて、周溝の痕跡と思われるくぼみを確認できると説明しています。
全国遺跡報告総覧にも「周濠ありか」と記録されていますが、存在が確定したという意味ではありません。
現時点では、地表に残るくぼみから周溝の可能性が指摘されているものの、範囲や構造は明らかになっていないと整理するのが適切です。
被葬者・埋葬施設・副葬品は分かっていない
亀の子塚古墳に葬られた人物の名前は分かっていません。
全長約56メートルの墳丘を築ける人物であったことから、地域の有力者層の墓と考えることはできますが、具体的な氏族名や支配範囲を示す資料は確認されていません。
また、公開されている公式情報では、棺を納めた埋葬施設の構造も明らかにされていません。
全国遺跡報告総覧の集成データでは「埴輪なし」とされていますが、未発見であることと、築造当初から存在しなかったことは同じではありません。
調査範囲が限られ、公開資料に詳しい出土状況が示されていない古墳では、確認されていない遺物を「存在しなかった」と断定しない注意が必要です。
古墳の上に祀られた行事神社
前方部の参道から後方部の社殿へ向かう
現在の亀の子塚古墳では、低い前方部からくびれ部を通り、高い後方部へ上がる道が行事神社の参道になっています。
古墳の形と神社の動線が重なっているため、平面図だけでは分かりにくい墳丘の高低差を体感できます。
ただし、鳥居や社殿、記念碑がある現在の景観を、そのまま古墳時代の姿と考えることはできません。
古代の墓が後世の信仰の場として守られてきた歴史を読み取る場所として見ると、亀の子塚古墳の特徴が理解しやすくなります。
秋の例大祭では子供相撲が奉納される
栃木県の文化財紹介によると、行事神社では毎年秋の例大祭に子供相撲が奉納されます。
境内には土俵が設けられており、古墳が現在も地域の行事と結びついた場所であることが分かります。
これは古墳時代から続く行事という意味ではありませんが、古墳が現在も地域の信仰や行事の場になっていることを示しています。
壬生町にも同名の亀の子塚古墳がある
芳賀町の古墳とは時代も形も異なる
栃木県下都賀郡壬生町大字羽生田にも、「亀の子塚古墳」という町指定史跡があります。
壬生町の亀の子塚古墳は古墳時代後期に築かれた全長約35メートルの前方後円墳で、前方部が短いことから帆立貝形と呼ばれる場合があります。
壬生町史編さんに伴う発掘調査では、須恵器の甕や𤭯、人物埴輪などが出土しました。
一方、ここで主に紹介している芳賀町の亀の子塚古墳は、4世紀の前方後方墳と考えられ、全長は約56.3メートルです。
所在地だけでなく、築造時期、墳形、規模、調査成果が異なる別の古墳なので、見学先や資料を調べるときは「芳賀町」または「壬生町」を一緒に確認してください。
亀の子塚古墳の見学情報
所在地とアクセス
- 名称:亀の子塚古墳
- 読み方:かめのこづかこふん
- 所在地:栃木県芳賀郡芳賀町大字西高橋・行事神社境内
- 住所:栃木県指定文化財一覧では、芳賀町大字西高橋字中峰1737
- 指定:栃木県指定記念物(史跡)
- 所有者・管理者:行事神社
- アクセス:栃木県の公式案内では、JR宇都宮駅東口から国道123号、県道石末・真岡線を経由して車で約42分
- 公開状況:随時見学可能と案内されていますが、事前連絡が望まれています
- 料金:公式案内に記載はありません
- 駐車場:公式案内では確認できません
- 特徴:全長約56.3メートルの前方後方墳で、後方部に行事神社が祀られています
交通状況や公開条件が変わる可能性があるため、訪問前に栃木県または芳賀町の公式情報を確認してください。
見学時に注目したいポイント
最初に見たいのは、前方部と後方部の高さの違いです。
鳥居が立つ前方部は約2.3メートル、社殿がある後方部は約4.6メートルあり、参道を進むと高低差を感じられます。
次に、後方部の北側から北西側にあるくぼみに注目すると、周溝の可能性が指摘されている地形を観察できます。
ただし、見ただけで人工の溝と判断できるとは限らないため、現地説明を確かめながら観察することが大切です。
神社の境内であり、県指定史跡でもあるので、参道から外れて斜面を削ったり、土や石、植物を持ち帰ったりしないようにしましょう。
亀の子塚古墳のFAQ
見学前の連絡はどこにすればよいですか?
芳賀町の公式ページでは、生涯学習課文化振興係が問い合わせ先として案内されています。
公開状況は随時とされていますが、県の文化財検索ページには事前連絡希望との記載があるため、団体での見学や詳しい説明を希望する場合は、訪問前に芳賀町へ確認すると安心です。
墳丘の中に入って石室を見学できますか?
公開されている公式資料には、見学できる石室や開口した埋葬施設の案内はありません。
社殿がある後方部の内部にどのような埋葬施設が残るのかも明らかになっていないため、見学対象は墳丘の外観と行事神社の境内が中心です。
まとめ
亀の形と川沿いの立地から古墳時代前期の芳賀を考える
芳賀町西高橋の亀の子塚古墳は、4世紀に築かれたと考えられる全長約56.3メートルの前方後方墳です。
低く長い前方部と、高く幅広い後方部が首を伸ばした亀のように見えることから、「亀の子山」と呼ばれてきました。
五行川の低地を望む宝積寺台地にあり、周辺の古墳と合わせて見ると、古墳時代前期の芳賀地域で前方後方墳が展開した景観が浮かびます。
一方、被葬者、埋葬施設、副葬品、周溝の全体像は分かっておらず、築造年代も墳形などをもとにした推定です。
行事神社の境内として受け継がれてきた現在の姿には、古代の墓と後世の信仰が重なる亀の子塚古墳ならではの魅力があります。
参考にした公式・関連資料
公的機関・研究資料
- 芳賀町「亀の子塚古墳」
- 栃木県「とちぎの文化財|亀の子塚古墳」
- 栃木県「栃木県指定文化財」
- 奈良文化財研究所・全国遺跡報告総覧「亀の子塚古墳/西高橋亀の子塚古墳」
- 壬生町立歴史民俗資料館「亀の子塚古墳」

