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侍塚古墳とは?徳川光圀が発掘した上侍塚・下侍塚古墳の歴史と見どころ

古代遺跡と考古学
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栃木県大田原市の侍塚古墳は、上侍塚古墳と下侍塚古墳からなる国指定史跡です。

どちらも前方部と後方部が四角い「前方後方墳」で、古墳時代前期の4世紀に築かれたと考えられています。

侍塚古墳が広く知られる理由は、墳丘の美しい姿だけではありません。

元禄5年(1692年)には徳川光圀の命による発掘が行われ、出土品の記録、埋め戻し、墳丘の修復まで実施されました。

この調査は、日本で最初の学術的な発掘調査の一つに位置づけられています。

さらに、2021年度から2025年度にかけて現代的な測量と発掘調査が行われ、築造当時の墳丘や江戸時代の修復に関する新しい手掛かりも得られました。

ここでは、侍塚古墳の規模や歴史、徳川光圀による発掘、近年の調査成果、現在も分かっていない点、見学情報を分かりやすく紹介します。

  1. 侍塚古墳とは何か
    1. 上侍塚古墳と下侍塚古墳の総称
    2. 侍塚古墳の基本情報
  2. 上侍塚古墳と下侍塚古墳の規模と特徴
    1. 上侍塚古墳は那須地域最大の前方後方墳
    2. 下侍塚古墳は保存状態のよい美しい古墳
  3. 侍塚古墳が築かれた4世紀の那須地域
    1. 那珂川流域に大型古墳が造られた時代
    2. 前方後方墳が示す地域間のつながり
    3. 2基の築造順序には資料による違いがある
  4. 徳川光圀が侍塚古墳を発掘した理由
    1. 発掘のきっかけは那須国造碑だった
    2. 佐々介三郎宗淳と大金重貞が調査を進めた
    3. 鏡や武器、装身具、土器が記録された
  5. なぜ日本最初の学術的発掘と呼ばれるのか
    1. 出土品を図に残して元の場所へ戻した
    2. 墳丘を修復して松を植えた
  6. 2021年度から2025年度までの発掘調査
    1. 航空レーザー測量と物理探査が行われた
    2. 上侍塚古墳で段築と周溝が確認された
    3. 江戸時代の修復の痕跡も見つかった
    4. 下侍塚古墳から円筒埴輪片が出土した
  7. 侍塚古墳に残る未解明の点
    1. 被葬者の名前は分かっていない
    2. 埋め戻された箱の状態は確認されていない
    3. 築造当時の姿と現在の姿は同じではない
  8. 侍塚古墳が「日本一美しい古墳」と呼ばれる理由
    1. 墳丘と松林がつくる独特の景観
    2. 松を守る「こも巻き」も受け継がれている
  9. 侍塚古墳の見学情報
    1. 侍塚古墳へのアクセス
    2. 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館
    3. 現地で注目したい見どころ
  10. 侍塚古墳に関するFAQ
    1. 侍塚古墳は侍や武士の墓ですか?
    2. 江戸時代に出土した鏡や武器は見られますか?
    3. 上侍塚古墳と下侍塚古墳は歩いて見学できますか?
  11. まとめ
    1. 侍塚古墳は古代と江戸時代の保存史を伝える史跡
  12. 主な出典元
    1. 公式・文化財機関の資料

侍塚古墳とは何か

上侍塚古墳と下侍塚古墳の総称

「侍塚古墳」は、一つの古墳だけを指す名称ではありません。

大田原市湯津上にある上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基を合わせた国指定史跡の名称です。

両古墳は那珂川西岸の段丘上にあり、南側に上侍塚古墳、そこから北へ約800メートル離れた場所に下侍塚古墳があります。

那須地域には多数の古墳が残っていますが、上侍塚古墳は地域最大、下侍塚古墳はそれに次ぐ規模です。

侍塚古墳の基本情報

  • 名称:侍塚古墳
  • 読み方:さむらいづかこふん
  • 構成:上侍塚古墳、下侍塚古墳
  • 所在地:栃木県大田原市湯津上
  • 立地:那珂川右岸の段丘上
  • 形状:前方後方墳
  • 築造時期:古墳時代前期の4世紀と考えられています
  • 史跡指定:1951年6月9日に国の史跡へ指定
  • 管理団体:大田原市

前方後方墳とは、上から見たときに前方部と後方部の両方が四角く見える古墳です。

円形の後円部を持つ前方後円墳とは形が異なります。

上侍塚古墳と下侍塚古墳の規模と特徴

上侍塚古墳は那須地域最大の前方後方墳

上侍塚古墳は墳丘長114メートルの前方後方墳です。

後方部は長さ60.5メートル、幅58メートル、高さ11.5メートルあり、前方部は長さ53.5メートル、幅52メートル、高さ6.5メートルとされています。

周溝を含めた総長は約154メートルです。

栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次ぐ規模とされています。

墳丘が大きいだけでなく、築造時には斜面の一部が葺石で覆われていました。

葺石とは、墳丘の表面に並べた石のことです。

土の流出を抑える働きがあったほか、古墳を目立たせる役割もあったと考えられています。

下侍塚古墳は保存状態のよい美しい古墳

下侍塚古墳は、上侍塚古墳の北方に位置する墳丘長84メートルの前方後方墳です。

後方部は長さ48メートル、幅48メートル、高さ約9.4メートル、前方部は長さ36メートル、幅36メートル、高さ約5メートルとされています。

周溝を含めた総長は約108メートルです。

墳丘の輪郭がよく残り、松に覆われた姿が周囲の景観と調和していることから、「日本一美しい古墳」と呼ばれることがあります。

これは公的な順位ではなく、考古学者の森浩一が1965年刊行の『古墳の発掘』で下侍塚古墳の美しさを高く評価したことから広まった呼び名です。

侍塚古墳が築かれた4世紀の那須地域

那珂川流域に大型古墳が造られた時代

古墳時代前期には、那珂川と箒川の合流点周辺に大型の前方後方墳が相次いで築かれました。

大型古墳の築造には、多数の人々を動員し、土や石を運び、一定の設計に沿って墳丘を造る力が必要でした。

そのため、上侍塚古墳と下侍塚古墳は、当時の那須地域で広い影響力を持った有力者の墓と考えられています。

ただし、被葬者の名前を記した墓誌は確認されていません。

特定の人物や氏族の墓であると断定できる資料も見つかっていないため、被葬者の実名は分かっていません。

前方後方墳が示す地域間のつながり

前方後方墳は栃木県内に比較的多く見られる古墳の形です。

那須地域の有力者たちが共通する墳形や葬送儀礼を採用していたことは、地域内に一定の政治的・文化的なつながりがあった可能性を示します。

一方で、墳形が似ていることだけで、大和政権との具体的な関係や被葬者同士の血縁まで判断することはできません。

出土した土器や副葬品、築造方法を他地域の古墳と比較しながら検討する必要があります。

2基の築造順序には資料による違いがある

大田原市が2026年に更新した解説では、下侍塚古墳が上侍塚古墳に先立って築かれ、上侍塚古墳も西暦400年以前の築造と考えられています。

一方、以前の栃木県の解説には、上侍塚古墳を4世紀前半、下侍塚古墳を4世紀中頃とする年代観も示されていました。

両古墳がおおむね4世紀の古墳である点は共通していますが、詳しい築造時期と順序については、近年の発掘成果を踏まえた今後の報告で整理される可能性があります。

徳川光圀が侍塚古墳を発掘した理由

発掘のきっかけは那須国造碑だった

侍塚古墳の発掘は、近くに残る那須国造碑の調査と深く関係しています。

那須国造碑は、7世紀末に造られたと考えられる石碑です。

碑文には、那須国造であった那須直韋提に関する事績が刻まれ、現在は笠石神社の御神体として守られています。

江戸時代、那須国造碑の存在を知った水戸藩第2代藩主の徳川光圀は、碑文に関わる人物の墓を確認しようとしました。

当時、侍塚古墳には碑に記された人物の墓だという言い伝えがあり、これを確かめる目的で発掘が行われました。

しかし、発掘では被葬者の名前を示す墓誌は見つかりませんでした。

侍塚古墳は4世紀、那須国造碑は7世紀末の資料と考えられているため、現在の年代観では両者の間に数百年の隔たりがあります。

佐々介三郎宗淳と大金重貞が調査を進めた

元禄5年(1692年)、徳川光圀の命を受けた儒学者の佐々介三郎宗淳と、地元の庄屋であった大金重貞らが調査にあたりました。

佐々介三郎宗淳は、時代劇『水戸黄門』に登場する「助さん」のモデルの一人といわれる人物です。

実際には光圀自身が墳丘を掘ったのではなく、光圀の指示のもとで佐々や大金らが発掘と記録を進めました。

当時の状況は、大金重貞がまとめた『湯津神村車塚御修理』や、佐々から大金に送られた書簡などによって知ることができます。

鏡や武器、装身具、土器が記録された

江戸時代の記録や後世に伝わった絵図には、上下の侍塚古墳から見つかった品々が描かれています。

上侍塚古墳では、鏡、管玉、釧、鉄鏃などが記録されました。

下侍塚古墳では、鏡、土師器の高坏や壺、甲冑の板、大刀などが記録されています。

釧は腕輪、鉄鏃は鉄製の矢じり、高坏は脚の付いた器です。

これらは被葬者の地位や当時の葬送儀礼を考える手掛かりになります。

ただし、出土品の多くは現代の研究者が直接再確認したものではありません。

品目や形については、発掘時の文書と絵図をもとに検討されています。

なぜ日本最初の学術的発掘と呼ばれるのか

出土品を図に残して元の場所へ戻した

光圀による調査では、出土品を取り出して終わりにはしませんでした。

絵師に形を描かせて記録した後、遺物を松板の箱に納め、再び墳丘内へ埋め戻しました。

箱は釘で留め、松やにで隙間をふさぎ、蓋には発掘の経緯を記したと伝えられています。

発掘の目的、作業の過程、出土品を文書と絵図に残した点は、近代以前の調査として重要です。

現代の発掘調査とは方法や精度が異なりますが、調査記録を作成して後世へ伝えようとした姿勢が高く評価されています。

墳丘を修復して松を植えた

発掘後には墳丘へ土を盛って修復し、盛土が崩れないように松を植える措置も取られました。

出土品を保管するだけでなく、遺跡そのものを残そうとした点から、文化財保護の先駆的な取り組みとも評価されています。

上下の後方部墳頂には、発掘跡と考えられるくぼみが現在も残っています。

ただし、現在見えている整った斜面の一部には江戸時代の盛土が含まれます。

私たちが目にする侍塚古墳は、4世紀の墳丘と1692年の修復、その後の地域住民による保護が重なって残された景観です。

2021年度から2025年度までの発掘調査

航空レーザー測量と物理探査が行われた

栃木県は「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」の一環として、2021年度から侍塚古墳の調査を始めました。

上侍塚古墳は2021年度から2024年度、下侍塚古墳は2024年度から2025年度に調査されています。

最初に行われたのが、航空レーザー測量です。

航空機からレーザーを当てて地表の高さを細かく測り、樹木に覆われた墳丘や周囲の地形を立体的に記録しました。

さらに、地中レーダー探査と電磁探査も実施されました。

地中レーダー探査は電磁波の反射から地下の構造を調べる方法で、電磁探査は金属など電気を通しやすい物質の反応を探る方法です。

遺跡を大きく掘り返さずに、墳丘内部の状態を調べられる点に特徴があります。

上侍塚古墳で段築と周溝が確認された

上侍塚古墳の西側では、幅約20メートル、最も深い場所で約2メートルの周溝が確認されました。

周溝とは、古墳の周囲に掘られた溝です。

北側と西側では形が比較的明瞭でしたが、東側は溝として深く掘るのではなく、地盤の砂礫層まで広く削り下げていた可能性が示されています。

墳丘の調査では、後方部が3段に築かれていたことが確認されました。

地中レーダー探査の結果も合わせると、前方部は2段、後方部は3段に造られていた可能性が高いと考えられています。

また、葺石の崩落部分から赤く塗られた壺形土器が多数出土しました。

くびれ部では小型土器も見つかり、一部は祭りの中で意図的に割られた可能性が指摘されています。

江戸時代の修復の痕跡も見つかった

上侍塚古墳の周溝を埋めた土からは、江戸時代の陶磁器片が出土しました。

土層には鋤などで掘った痕跡も残っていました。

このため、光圀の調査時に墳丘を修復する土を得る目的で、周溝を掘り直した可能性が考えられています。

墳丘の一部では、古墳時代の盛土を江戸時代の盛土が覆っている状況も確認されました。

侍塚古墳の調査は、4世紀の築造方法だけでなく、1692年にどのような保存工事が行われたのかを考える研究でもあります。

下侍塚古墳から円筒埴輪片が出土した

下侍塚古墳では、1975年にも周溝の調査が行われ、葺石や土師器の壺などが確認されていました。

2024年度と2025年度の調査では、過去の調査地点を確かめながら周溝と墳丘裾部が調べられました。

その結果、周溝が関東ローム層を深く掘り込んで造られていることや、後に水田として利用されたため上部が改変されていることが分かりました。

墳丘裾部では、転落した葺石と赤く塗られた壺形土器に加え、円筒埴輪の破片が見つかっています。

東日本の古墳時代前期の前方後方墳では、壺形土器を並べても円筒埴輪は用いないという見方がありました。

そのため、この発見は当時の墳丘上の飾り方を見直す手掛かりとして注目されています。

ただし、見つかった破片は少量で、埴輪の全体形や配置はまだ分かっていません。

侍塚古墳に残る未解明の点

被葬者の名前は分かっていない

侍塚古墳が当時の那須地域を代表する有力者の墓である可能性は高いものの、被葬者を特定できる文字資料はありません。

徳川光圀の調査でも墓誌は発見されず、那須国造碑に記された人物の墓であることは確認できませんでした。

古墳の規模だけから特定の人物名を当てはめることはできません。

埋め戻された箱の状態は確認されていない

江戸時代の記録によると、出土品を納めた松板の箱は墳丘内に埋め戻されました。

地中レーダー探査では、上侍塚古墳の墳頂部に深さ約1.5~4メートルの掘り込みがあることが分かりました。

一方、電磁探査では埋め戻された鏡や鉄製品を明確に示す反応は得られていません。

箱がどの位置にあり、現在どのような状態なのかは確認されていません。

反応がなかったことだけで、箱や遺物が失われたと判断することもできません。

築造当時の姿と現在の姿は同じではない

現在の墳丘は非常に整っていますが、その表面には光圀の調査後に加えられた盛土が含まれます。

築造当時の段築や葺石の多くは、現在の地表からは見えません。

美しい外観そのものが4世紀から一度も変わっていないわけではなく、古代の墳丘を江戸時代に修復し、その後も地域で守り続けた結果です。

侍塚古墳が「日本一美しい古墳」と呼ばれる理由

墳丘と松林がつくる独特の景観

下侍塚古墳は、前方部と後方部の輪郭を地上から捉えやすく、松林に包まれた姿が田園風景の中に浮かび上がります。

墳丘の保存状態、周囲から眺めた形、長く続く地域の保護活動が一体となり、独特の景観を生み出しています。

「日本一美しい」という呼び名は規模や高さの順位ではなく、文化財が地域の風景として守られてきたことへの評価を表す言葉といえます。

松を守る「こも巻き」も受け継がれている

墳丘上の松は、光圀が発掘後に植えさせたことに由来すると伝えられています。

現在も松を害虫から守るため、冬を迎える前に幹へこもを巻く取り組みが行われています。

江戸時代の保存方針が地域の活動として受け継がれている点も、侍塚古墳の大きな特徴です。

侍塚古墳の見学情報

侍塚古墳へのアクセス

  • 名称:侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)
  • 所在地:栃木県大田原市湯津上
  • 下侍塚古墳の所在地:栃木県大田原市湯津上670付近
  • 見学:屋外から見学可能
  • 料金:無料
  • 予約:通常の見学は不要
  • 鉄道駅からのアクセス:JR宇都宮線西那須野駅から車で約35分
  • 自動車でのアクセス:東北自動車道西那須野塩原インターチェンジから車で約40分
  • 駐車場:あり。現地の案内に従って指定駐車場を利用してください
  • 問い合わせ先:大田原市文化振興課文化財係
  • 電話番号:0287-23-3135

侍塚古墳は屋外の史跡であり、古墳自体の開館時間や休館日は公式情報に示されていません。

安全に墳丘の形を確かめるため、明るい時間帯の見学が向いています。

発掘調査や保全作業によって、通行できる範囲や駐車場所が変わる場合があります。

墳丘や調査区へ無断で立ち入らず、柵、案内板、管理者の指示に従ってください。

草地や土の斜面は雨の後に滑りやすくなるため、歩きやすい靴が適しています。

大田原市なす風土記の丘湯津上資料館

  • 名称:大田原市なす風土記の丘湯津上資料館
  • 所在地:栃木県大田原市湯津上192
  • 位置:下侍塚古墳の南向かい
  • 開館時間:午前9時30分~午後5時
  • 最終入館:午後4時30分
  • 休館日:月曜日。月曜日が祝日の場合は次の平日、年末年始、展示替えなどによる臨時休館日
  • 入館料:一般100円、高校・大学生50円、中学生以下無料
  • 電話番号:0287-98-3322
  • 公共交通:那須塩原駅東口から市営バスで黒羽支所へ行き、予約制のデマンド交通へ乗り継ぐ方法があります

資料館では、那須国造碑が造られた時代背景、徳川光圀による侍塚古墳の発掘、市内の遺跡と出土品などを紹介しています。

料金、休館日、交通の運行内容は変更される可能性があるため、訪問前に大田原市の公式サイトで最新情報を確認してください。

現地で注目したい見どころ

下侍塚古墳では、まず少し離れた場所から墳丘全体を眺めると、前方後方墳の輪郭を捉えやすくなります。

後方部墳頂のくぼみは、1692年の発掘と関係する痕跡と考えられています。

上侍塚古墳では、114メートルに及ぶ墳丘の大きさと、高い後方部に注目してください。

地上からは築造当時の段築や葺石の全体を見ることはできませんが、近年の調査によって、その下に古代の構造が残ることが分かってきました。

時間に余裕があれば、なす風土記の丘湯津上資料館と、那須国造碑を祀る笠石神社を合わせて訪れると、4世紀の古墳と7世紀末の石碑、江戸時代の調査史を一つの流れとして理解できます。

侍塚古墳に関するFAQ

侍塚古墳は侍や武士の墓ですか?

侍塚古墳が築かれたのは、武士が活躍する時代よりはるかに古い4世紀です。

名称に「侍」とありますが、歴史上の侍や武士の墓であることを示す考古学的証拠はありません。

被葬者は、古墳時代の那須地域で大きな力を持った有力者と考えられています。

江戸時代に出土した鏡や武器は見られますか?

出土品は図に記録された後、箱に納めて墳丘へ埋め戻されたと伝えられています。

現在、元の出土品を展示室で見ることはできませんが、栃木県埋蔵文化財センターの公式サイトでは『那須記』や『葬礼私考』に収録された絵図が紹介されています。

なす風土記の丘湯津上資料館でも、光圀による発掘の経緯を学べます。

上侍塚古墳と下侍塚古墳は歩いて見学できますか?

両古墳は南北に約800メートル離れているため、周辺を歩いて見学できます。

ただし、途中には一般の道路や生活空間があります。

交通に注意し、私有地へ入らず、現地の案内に従ってください。

まとめ

侍塚古墳は古代と江戸時代の保存史を伝える史跡

侍塚古墳は、栃木県大田原市湯津上にある上侍塚古墳と下侍塚古墳の総称です。

2基はいずれも4世紀の前方後方墳と考えられ、当時の那須地域を代表する有力者の存在を伝えています。

被葬者の名前は分かっておらず、詳しい築造順序にも検討の余地が残ります。

1692年には徳川光圀の命による発掘が行われ、遺物の図化、埋め戻し、墳丘の修復、松の植樹まで実施されました。

この取り組みが、日本で最初の学術的な発掘調査の一つ、文化財保護の先駆けとして評価されています。

近年の調査では、上侍塚古墳の段築や周溝、江戸時代の修復層、下侍塚古墳の円筒埴輪片などが確認されました。

一方、埋め戻された箱の位置と状態、墳丘上に置かれた埴輪の全体像などは、まだ明らかになっていません。

侍塚古墳の美しさは、古代の築造技術だけでなく、江戸時代から現代まで守り継いできた人々の営みによって形づくられています。

現地を訪れるときは、2基の形や大きさとともに、長い文化財保護の歴史にも目を向けてみてください。

主な出典元

公式・文化財機関の資料

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