多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町に残る奈良時代初めの石碑です。
碑面には、和銅4年(711年)に新しい行政区画として多胡郡が設置されたことが刻まれています。古代の地方行政を同時代の文字で伝える貴重な資料であり、国の特別史跡に指定されています。
なかでも注目されるのが、碑文に登場する「羊」という一字です。一般的には多胡郡の統治を任された人物の名と解釈されていますが、別の読み方を唱える説もあり、現在まで議論が続いています。
ここでは、多胡碑の形状や碑文の内容、多胡郡が置かれた背景、渡来系文化との関係、ユネスコ「世界の記憶」に登録された理由を紹介します。
多胡碑とは
711年の多胡郡設置を記念した建郡碑
多胡碑は、和銅4年(711年)に上野国(こうずけのくに)へ多胡郡が新設されたことを記念する建郡碑です。建郡碑とは、新しい郡が置かれた出来事を後世へ伝えるための石碑を指します。
上野国は、現在の群馬県にあたる古代の国です。多胡郡は上野国で14番目の郡として設置され、現在の高崎市山名町から吉井町付近に広がっていたと考えられています。
多胡碑は1921年3月3日に国の史跡となり、1954年3月20日には特別史跡に指定されました。現在は「吉井いしぶみの里公園」の一角にある覆屋の中で保存されています。
日本三古碑と上野三碑の一つ
多胡碑は、栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑と並ぶ「日本三古碑」の一つです。これは、古くから書道史や金石文研究の対象として重視されてきた三つの古碑を指します。
一方、高崎市内に残る山上碑、多胡碑、金井沢碑は「上野三碑」と呼ばれます。山上碑は681年、多胡碑は711年頃、金井沢碑は726年に造られました。
日本三古碑と上野三碑は、構成する石碑が異なります。多胡碑は、その両方に含まれていることが大きな特徴です。
多胡碑の形状と80字の碑文
地元産の牛伏砂岩で造られた石碑
多胡碑は、笠石、碑身、台石の三つの部分から構成されています。
文字が刻まれた碑身は、高さ129センチ、幅69センチ、厚さ62センチの方柱状です。その上には幅95センチ、奥行90センチの笠石が載せられています。
石材には、高崎市吉井町南部で採れる牛伏砂岩が使われました。花崗岩質砂岩の一種で、多胡石とも呼ばれています。
正面には、楷書体の漢字80字が縦6行にわたって刻まれています。文字の溝を丸く仕上げる丸底彫りが用いられ、端正で力強い書風を今に伝えています。
碑文には何が書かれているのか
碑文の前半には、朝廷の弁官局から上野国へ出された命令が記されています。
内容は、片岡郡、緑野郡、甘良郡の三郡から300戸を分け、新しく多胡郡を設置するというものです。続いて「羊」に郡の統治を任せること、命令が和銅4年3月9日に伝えられたことが示されています。
後半には、穂積親王、石上麻呂、藤原不比等など、当時の中央政府を代表する人物の名が並びます。地方に建てられた石碑でありながら、朝廷の命令と政府首脳の名を刻んでいる点が重要です。
同じ多胡郡の設置は、奈良時代に編纂された歴史書『続日本紀』にも記録されています。石碑と文献の双方から建郡を確認できるため、多胡碑は律令国家による地方支配を考えるうえで価値の高い史料となっています。
なぜ多胡郡が設置されたのか
生産地域をまとめ直した可能性
多胡郡が置かれた地域は、かつてヤマト政権の直轄地とされる緑野屯倉や佐野屯倉が設けられた範囲と重なります。屯倉(みやけ)は、ヤマト政権が各地に置いた土地や施設を指す言葉です。
この一帯では、窯業、布の生産、石材や木材の産出などが盛んでした。高崎市は、多胡郡の設置について、こうした生産拠点をまとめ、郡の区割りを見直す目的があったと考えられると説明しています。
ただし、建郡の背景については、東北地方に対する当時の政策との関係や、地域内の勢力を調整する目的なども指摘されています。多胡碑だけですべての事情が分かるわけではありません。
多胡郡正倉跡が碑文の内容を裏付ける
多胡碑の南約350メートルでは、古代の倉庫群である「上野国多胡郡正倉跡」が発掘されています。
正倉は、郡内で徴収した稲などを保管した倉庫です。発掘調査では区画溝や複数の建物跡が確認され、北端では瓦葺きの大型建物が見つかりました。この建物は、重要な穀物を保管した法倉と考えられています。
多胡郡正倉跡は、多胡碑に記された郡が実際に行政機能を備えていたことを考えるための重要な遺跡です。文字資料である多胡碑と発掘された遺構を組み合わせることで、古代多胡郡の姿がより具体的に見えてきます。
碑文に登場する「羊」とは誰なのか
渡来系の人物とする見方
碑文には「給羊」という表現があります。一般的な読み方では、朝廷が「羊」という人物に多胡郡の支配を任せたという意味になります。
高崎市は、羊を渡来人とみられる人物とし、多胡郡の初代長官になった可能性を紹介しています。渡来人とは、古代に朝鮮半島や中国大陸などから日本へ移り住み、技術や文化を伝えた人々とその系譜を指す言葉です。
碑身に笠石を載せる形や整った楷書には、中国を源流とする石碑文化の影響が見られます。周辺で窯業や布生産などの技術が発達していたことも、この地域と渡来系文化の結び付きを考える手掛かりです。
ただし、羊の出身地や経歴を直接記した史料は確認されていません。渡来系の人物とする見方が有力であっても、その素性を細部まで断定することはできません。
「羊」を「年」の異体字とみる説
「羊」を人物名としない解釈もあります。
群馬県出身の歌人・土屋文明は、「羊」を「年」の異体字とみて、「給羊」を新しい郡の住民に対する一定期間の負担免除と解釈しました。このように、碑文の短い表現には複数の読み方が提示されています。
現在の一般的な解説では人物名とする読み方が採用されていますが、異説があることも多胡碑研究の興味深い点です。確実に分かっているのは、碑文が多胡郡の設置を伝えていることです。
羊太夫伝説との違い
吉井地域には、羊太夫(ひつじだゆう)と呼ばれる人物の伝説が残っています。碑文の「羊」と結び付けて語られてきましたが、羊太夫伝説には後世に形成された物語的な要素が含まれます。
そのため、碑文から確認できる古代の人物像と、地域に伝わる羊太夫の物語は分けて考える必要があります。伝説は史実をそのまま伝える記録ではありませんが、多胡碑が地域の人々にどのように受け止められてきたかを知る文化資料といえます。
東アジアの文化交流を伝える多胡碑
中国文化を取り入れた形と書風
多胡碑の形状や楷書体の碑文には、古代中国の石碑文化から受けた影響が見られます。
これは、奈良時代初めの東国が文化的に孤立していたわけではなく、中央政府を介して漢字文化や政治制度を受け入れていたことを示します。朝廷の命令を漢字で石に刻む行為そのものが、当時の国家制度と文字文化の広がりを物語っています。
拓本を通じて海外へ伝わった書
多胡碑は、外来文化を受け入れた証拠であるだけではありません。
18世紀以降には、碑面へ紙を当てて文字を写し取った拓本が、朝鮮通信使などを通じて国外へ伝えられました。その書風は中国でも評価され、後世の日本の書家にも影響を与えたとされています。
多胡碑からは、中国大陸や朝鮮半島から日本へ文化が伝わり、その後、日本に残された書が再び東アジアで知られていくという交流の流れを読み取れます。
ユネスコ「世界の記憶」に登録された理由
上野三碑として2017年に国際登録
多胡碑は、山上碑、金井沢碑とともに、2017年10月31日にユネスコ「世界の記憶」へ登録されました。登録名称は「上野三碑」です。
ユネスコは、三つの石碑が7世紀から8世紀の日本の中心地から離れた東国に建てられ、中国式の政治制度や仏教、漢字文化が地方まで伝わっていたことを示す資料であると評価しています。
「世界の記憶」は、歴史的に重要な文書や記録物の保存と利用を促す事業です。建造物や遺跡を対象とする「世界遺産」とは異なる制度であるため、多胡碑は世界遺産ではありません。
古代の地方社会を同時代の文字で伝える価値
古代日本の地方社会に関する情報は、後の時代に編纂された文献から読み取ることが少なくありません。これに対して多胡碑は、郡が置かれた時期に近い711年頃の文字を石面に残しています。
中央政府の命令、地方行政の再編、文字文化の広がり、東アジアとの交流を一つの石碑から考えられる点に、多胡碑の大きな価値があります。
多胡碑と多胡碑記念館の見学情報
所在地・開館時間・アクセス
- 名称:特別史跡 多胡碑
- 所在地:群馬県高崎市吉井町池1095
- 関連施設:多胡碑記念館
- 記念館住所:群馬県高崎市吉井町池1085(吉井いしぶみの里公園内)
- 開館時間:午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
- 休館日:月曜日。月曜日が祝日・振替休日の場合は開館し、翌火曜日が休館。年末年始は12月28日~1月4日が休館
- 観覧料:2027年3月31日まで無料
- 車でのアクセス:上信越自動車道吉井インターチェンジから約7分
- 電車でのアクセス:上信電鉄吉井駅から徒歩約30分、車で約5分
- 駐車場:あり
- 見学時の注意点:多胡碑は覆屋で保護されており、通常はガラス越しの見学です。特別公開の日程や交通機関の運行日は、訪問前に高崎市の公式情報を確認してください
※開館時間や料金などは2026年8月時点の公式情報です。
記念館で碑文と周辺遺跡を学べる
多胡碑記念館では、上野三碑の実物大レプリカや、古代多胡郡に関する考古資料、中国の刻石の拓本などを展示しています。
多胡碑は覆屋の中にあるため、現地では細かな文字を読み取りにくいことがあります。先に記念館で碑文の意味や石碑の構造を確かめてから見学すると、刻まれた80字の重要性を理解しやすくなります。
館内では、上野国多胡郡正倉跡の発掘資料も見られます。時間に余裕があれば、多胡碑と正倉跡をあわせて巡ることで、石碑に記された建郡と実際の行政施設とのつながりを体感できます。
多胡碑に関するよくある質問
多胡碑は世界遺産ですか?
多胡碑は世界遺産ではありません。
山上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」として、ユネスコの記録遺産事業である「世界の記憶」に登録されています。遺跡や建造物を対象とする世界遺産とは異なります。
日本三古碑と上野三碑は同じものですか?
同じではありません。
日本三古碑は那須国造碑、多胡碑、多賀城碑を指します。上野三碑は、群馬県高崎市に残る山上碑、多胡碑、金井沢碑の総称です。多胡碑だけが両方に含まれます。
多胡碑の「羊」は羊太夫のことですか?
碑文の「羊」は、多胡郡の統治を任された人物名とする解釈が一般的です。地域に残る羊太夫伝説と結び付けられてきましたが、両者が同一人物であると証明する同時代の史料は確認されていません。
また、「羊」を「年」の異体字とみる説もあります。伝説と研究上の解釈を分けて考えることが大切です。
まとめ
多胡碑は古代の地方行政と文化交流を伝える石碑
多胡碑は、和銅4年(711年)に多胡郡が設置されたことを80字の碑文で伝える古代石碑です。『続日本紀』の記録や近隣の多胡郡正倉跡とあわせて、律令国家による地方支配の実態を考える手掛かりとなっています。
碑文の「羊」は渡来系の人物名とする見方が一般的ですが、その素性や「給羊」の解釈には未解明の部分が残ります。後世の羊太夫伝説は、確認された史実とは区別して捉える必要があります。
多胡碑は、中国文化の影響を受けた形と書風を備え、後には拓本を通じて国外にも知られました。小さな石碑の中に、古代の行政、文字、技術、そして東アジアの文化交流が重なっている点こそ、多胡碑の大きな魅力です。


