アゼルバイジャンの半砂漠地帯には、動物や狩人、船、踊る人々などを岩に刻んだ「ゴブスタンの岩絵群」が残されています。
登録されている岩絵は6,000点を超え、周辺では洞窟住居や集落、埋葬地の痕跡も確認されました。
これらは一つの時代に作られたものではありません。
旧石器時代後期から中世まで続いた人間の活動を、岩だらけの景観とともに伝える文化遺産です。
一方、「すべての岩絵が4万年前に描かれた」「船の絵は北欧との交流を証明している」といった受け止め方には注意が必要です。
ここでは、ゴブスタンの岩絵群の場所や年代、描かれた内容、世界遺産としての価値、現在も解明されていない点を紹介します。
ゴブスタンの岩絵群とは
アゼルバイジャンの半砂漠に広がる岩絵遺跡です
ゴブスタンの岩絵群は、アゼルバイジャンの首都バクーから南へ約60~65キロメートル離れた地域にあります。
カスピ海の西岸から少し内陸に入った、岩山と半砂漠が広がる場所です。
正式な世界遺産名は「ゴブスタンの岩絵の文化的景観」です。
文化的景観とは、人間の活動と自然環境が長い時間をかけて結び付いて生まれた景観を指します。
ゴブスタンでは岩絵だけでなく、人々が暮らした洞窟や岩陰、集落、墓地なども景観の一部として評価されています。
世界遺産として登録された範囲は537.22ヘクタールです。
周囲には3,096.34ヘクタールの緩衝地帯が設けられています。
世界遺産は三つの区域で構成されています
世界遺産の登録範囲は、次の三つの区域に分かれています。
- ジンギルダーグ山・ヤズィルテペ丘
- ボユクダシュ山
- キチクダシュ山
大きな石灰岩の岩塊が重なる地形には、洞窟や岩陰が形成されました。
岩絵は1,000を超える岩面で確認され、その数は6,000点以上にのぼります。
ただし、保護区全体の調査が均等に進んでいるわけではありません。
未調査の場所にも岩絵や遺構が残されている可能性があり、知られている点数は今後変わることがあります。
「4万年にわたる岩絵」の意味には注意が必要です
UNESCOは、ゴブスタンの岩絵群を「4万年にわたる岩絵を伝える遺産」と説明しています。
これは遺跡全体が非常に長い時間幅を持つことを表すものです。
すべての岩絵が4万年前に作られたという意味ではありません。
確認されている人間活動の年代は、旧石器時代後期から中世までに及びます。
一方、岩そのものに刻まれた線は、木材や骨のように直接年代を測りにくい資料です。
研究では、岩絵の上に重なった地層、発掘された彫刻入りの石片、描写の様式、当時のカスピ海の水位などを組み合わせて年代が検討されています。
ICOMOSの評価書も、岩絵全体について十分に整理された年代の連続がまだ確立していないと指摘しています。
そのため、個別の図像の制作年代には幅があり、資料によって年代の示し方が異なる場合があります。
発見と研究の歴史
1939年から1940年に初期の発見が行われました
ICOMOSの評価書によると、ゴブスタンでは1939年から1940年に初期の発見が行われました。
その後、アゼルバイジャンの考古学者イシャグ・M・ジャファルザデが1947年から体系的な調査を進めます。
ジャファルザデは750の岩面に刻まれた3,500点以上の図像を記録し、内容や表現を分析しました。
後続の研究者による発見と発掘によって、登録された岩絵の数はさらに増えています。
1965年以降には20か所を超える先史時代の遺跡で発掘が行われ、青銅器時代の構造物も確認されました。
岩絵だけを見るのではなく、地中から見つかった生活の痕跡と合わせて研究できることが、ゴブスタンの大きな特徴です。
1966年に保護区となり2007年に世界遺産へ登録されました
ゴブスタンは1966年、国の歴史・芸術保護区として保護されるようになりました。
世界遺産への推薦は一度で決まったわけではありません。
2004年の審議では、世界的な位置付けを明らかにするための調査や比較研究が必要だとして、登録が延期されました。
管理計画や行動計画の見直しを経て、2007年に「ゴブスタンの岩絵の文化的景観」として世界遺産へ登録されています。
岩絵には何が描かれているのか
野生動物と狩猟・漁労の場面
岩絵には、ウシ科の動物、ヤギ、シカ、イノシシ、ウマ、ライオン、魚などが描かれています。
弓矢を持った狩人や漁に関係すると考えられる人物像もあり、人々が食料を得るために行った活動を知る手掛かりです。
動物は単純な記号だけではなく、体の輪郭を大きく表した例もあります。
ICOMOSの評価書では、2メートルを超えるウシの図像や、約4.3メートルに達する漁師とされる人物像も報告されています。
ただし、同じ動物が時代を越えて同じ意味を持っていたとは限りません。
狩猟の記録、集団の象徴、儀礼に関係する表現など、図像の意味は慎重に検討する必要があります。
船の岩絵は古い環境を考える手掛かりです
ゴブスタンでは、船を思わせる細長い図像が数多く見つかっています。
少人数が乗る小型の船から、多数の人物が並ぶ大型の船まで表現はさまざまです。
一部には、船首に太陽のような意匠が刻まれたものもあります。
現在の遺跡は海岸から内陸にありますが、カスピ海の水位は長い時間の中で大きく変動してきました。
岩絵の位置や当時の地形を調べることで、水辺での移動や漁労が人々の生活にどのような役割を果たしたのかが研究されています。
船の形が北欧などの岩絵と似ているという比較も行われています。
しかし、形の類似だけで先史時代の人々がゴブスタンと北欧の間を直接移動したと証明することはできません。
文化的なつながりの有無は、現在も研究すべき課題です。
踊る人々や女性像も残されています
人間を表した岩絵には、弓を持つ狩人、並んで踊っているように見える集団、身体の輪郭を強調した女性像などがあります。
集団の図像は、狩猟前の儀礼や祭り、共同体の踊りを表したものと解釈されることがあります。
ただし、岩絵を作った人々の言葉や説明文は残されていません。
現代の研究者が動作や構図から読み取った解釈であり、儀礼の具体的な意味まで確定しているわけではありません。
時代が下ると騎馬人物やラクダの隊列が現れます
岩絵群は、先史時代だけの資料ではありません。
青銅器時代と考えられる図像には、車輪のある乗り物や騎乗する人物、家畜を囲うような場面が含まれます。
さらに時代が下ると、武器を持つ騎馬人物やラクダの隊列、文字を伴うものも現れます。
異なる時代の人々が同じ岩山を利用し続けたため、ゴブスタンには生活や移動手段の変化が重なって残されました。
岩絵以外に残された重要な遺構
洞窟・集落・埋葬地が生活の実態を補います
ゴブスタンでは、岩絵の近くに人が暮らした洞窟や岩陰、集落、埋葬地が残されています。
一部の洞窟では厚い文化層が確認されました。
文化層とは、人が生活する中で残した道具、灰、食べ物の痕跡などが積み重なった地層です。
岩絵だけでは分からない年代や暮らしを、こうした発掘資料が補っています。
岩絵と考古学的な地層を同じ場所で比較できることは、制作年代を検討するうえでも重要です。
音の鳴る石ガヴァル・ダシュ
現地には「ガヴァル・ダシュ」と呼ばれる大きな石があります。
小石でたたくと、タンバリンに似た響きが生まれることから「音楽石」として知られています。
岩絵と同様にゴブスタンを象徴する存在ですが、どの時代にどのような目的で使われ始めたのかを単純に断定することはできません。
先史時代の儀礼や音楽に使われたと紹介されることもあるものの、その具体的な使用法は慎重に考える必要があります。
ローマ軍兵士が残したラテン語碑文
ボユクダシュ周辺には、ローマ軍第12軍団フルミナタに関係するラテン語碑文が残されています。
碑文はローマ皇帝ドミティアヌスの治世にあたる西暦84~96年ごろに刻まれたと考えられています。
これはローマ軍関係者がカスピ海沿岸まで到達したことを示す貴重な資料です。
ただし、碑文が一つ残っていることから、ローマ帝国がゴブスタンを長期にわたって支配したとまではいえません。
確認できるのは、少なくとも軍団に関係する人物がこの地域を通過したことです。
ゴブスタンの岩絵群が伝える歴史
現在とは異なる温暖で湿潤な環境がありました
現在のゴブスタンは乾燥した半砂漠ですが、古い岩絵には、水や豊かな植生を必要とする動物が描かれています。
洞窟や集落の痕跡も、最終氷期後の温暖で湿潤な時期に人々がこの地域を集中的に利用したことを示します。
カスピ海の水位変化、花粉分析、動物の種類などを合わせると、過去のゴブスタンが現在と大きく異なる景観だったことが分かります。
岩絵は単なる美術作品ではなく、気候や植生、人間の生業が変わった過程を考える資料でもあります。
人々の暮らしが長期間にわたって重なっています
狩猟や漁労を行う人々、家畜と暮らす人々、車や馬で移動する人々、ラクダの隊列など、岩絵の題材は時代とともに変化します。
その変化は、同じ地域で人間の活動が繰り返されたことを示しています。
UNESCOが重視したのは、古い図像の年代だけではありません。
先史時代から中世まで続く文化の連続性と、失われた生活様式を具体的に伝える図像の密度が評価されました。
岩絵の意味と年代には未解明の部分があります
踊りの場面がどのような儀礼を表すのか、女性像が母性や信仰と関係するのか、船が実際にどのような航行に使われたのかは完全には分かっていません。
同じ岩面に新旧の図像が重なっている場合もあり、制作順序の整理が必要です。
研究では様式の比較だけでなく、発掘調査、地層、古環境、カスピ海の水位変動などを組み合わせています。
今後の調査によって、個々の図像の年代や意味が修正される可能性があります。
世界遺産として評価された理由と保存上の課題
登録基準(iii)が認められました
ゴブスタンの岩絵群は、世界遺産の登録基準(iii)によって評価されました。
登録基準(iii)は、現存する、または失われた文化や文明を伝える重要な証拠であることを示す基準です。
狩猟や漁労、動物、植物環境、暮らしを具体的に表した岩絵は、現在では失われた生活様式を知る優れた証拠とされました。
また、膨大な数の図像が比較的狭い範囲に集中し、先史時代から中世までの長い変化を伝えている点も重要です。
自然風化と人間活動の両方から守る必要があります
岩絵は屋外の岩面に刻まれているため、風、雨、温度や湿度の変化などの影響を受けます。
UNESCOの2024年の定期報告では、岩の表面に付着する粉じんや塩分などが図像を見えにくくする問題も挙げられました。
過去には落書き、採石、車両の接近などによる影響も指摘されています。
世界遺産への登録後も、記録の充実、状態の監視、見学者の動線管理、広い保護区の調査を続ける必要があります。
ゴブスタンの岩絵群の観光・見学情報
現地を訪れる前に確認したい基本情報
- 名称:ゴブスタン国立歴史・芸術保護区/ゴブスタンの岩絵の文化的景観
- 所在地:アゼルバイジャン共和国バクー市行政地域ガラダグ地区、ゴブスタン集落付近
- 住所の目安:Near Gobustan settlement, Garadagh District, Baku
- アクセス:バクー中心部から南へ約60~65キロメートルです。現地観光局はバクー周辺の見学地として紹介していますが、岩山の保護区であるため、車、タクシー、現地ツアーなどを利用する行程を事前に確認してください。
- 開館時間:最新の時間を確認できる公式資料が限られるため、訪問前にアゼルバイジャン観光局や文化省の案内で確認してください。
- 料金:変更される可能性があるため、訪問前に最新情報を確認してください。
- 休館日:訪問前に最新の公式案内を確認してください。
- 特徴:岩絵を解説する博物館と、実物の岩絵を見学する屋外区域があります。
- 見学時の注意点:岩絵に触れたり、線を見やすくするために水や薬品をかけたり、岩面へ文字を刻んだりしてはいけません。半砂漠の屋外を歩くため、季節に応じた日差し、風、足元への対策も必要です。
海外の遺跡は、入場条件、交通事情、公開範囲が変わることがあります。
訪問前に最新の公式情報を確認してください。
博物館を見てから屋外の岩絵へ向かうと理解しやすくなります
現地の博物館では、ゴブスタンの地形、時代ごとの生活、岩絵の記録方法などを学べます。
先に解説を確認しておくと、屋外では細い線で刻まれた動物や人物を見つけやすくなります。
一般の見学で中心となるのはボユクダシュ区域です。
世界遺産を構成する三つの区域すべてを自由に歩き回れるわけではないため、公開されている見学路と現地の指示に従ってください。
岩絵だけでなく、巨大な岩塊が重なる地形や、現在の乾燥した景観と岩絵に刻まれた動物との違いにも注目すると、遺跡の歴史が立体的に見えてきます。
ゴブスタンの岩絵群に関するFAQ
ゴブスタンの岩絵は絵具で描かれた壁画ですか?
確認されているものの多くは、岩の表面を打ち欠く、線を刻む、こするといった方法で作られた岩刻画です。
一般に「岩絵」と呼ばれますが、洞窟の壁に顔料で描いた絵とは制作方法が異なります。
ゴブスタンの岩絵はすべて4万年前のものですか?
すべてが同じ年代ではありません。
UNESCOの「4万年にわたる岩絵」という説明は、遺跡全体が持つ長い時間幅を示しています。
個々の図像の年代には研究上の幅があり、旧石器時代後期から中世までの異なる時代の表現が含まれます。
船の岩絵は北欧の人々がゴブスタンへ来た証拠ですか?
船の形と北欧などの岩絵を比較する研究はありますが、形が似ているだけで直接交流や移住を証明することはできません。
年代、考古遺物、移動経路などを合わせて検討する必要があり、現時点では確定した事実ではありません。
ゴブスタンの泥火山も世界遺産に含まれますか?
周辺には泥火山があり、岩絵群と組み合わせた観光ルートも見られます。
ただし、UNESCOに登録されている「ゴブスタンの岩絵の文化的景観」は、三つの岩山区域にある岩絵、洞窟、集落跡、埋葬地などを中心とする文化遺産です。
近隣の泥火山と世界遺産の岩絵群は、同じものとして扱わないほうが正確です。
まとめ
ゴブスタンの岩絵群は人間と環境の長い変化を伝える遺産です
ゴブスタンの岩絵群には、6,000点を超える動物、人間、船、狩猟、踊り、騎馬人物などの図像が残されています。
洞窟、集落跡、埋葬地と組み合わせることで、旧石器時代後期から中世まで続いた人間の活動をたどれる点が大きな特徴です。
かつての温暖で湿潤な環境や、カスピ海の水位変化を考える手掛かりにもなっています。
一方、すべての岩絵の正確な年代や、踊り、女性像、船が持っていた意味は解明されていません。
確かな考古学的成果と未解明の部分を分けて見ることで、ゴブスタンが伝える人間の長い歴史をより深く理解できます。
主な出典元
参考にした公式・学術資料
- UNESCO World Heritage Centre:Gobustan Rock Art Cultural Landscape
- UNESCO World Heritage Centre:Gobustan Rock Art Cultural Landscape – Documents
- ICOMOS:Advisory Body Evaluation – Gobustan (Azerbaijan) No 1076 rev
- UNESCO World Heritage Centre:Periodic Reporting Cycle 3, Section II – Gobustan Rock Art Cultural Landscape
- UNESCO Digital Library:Rock art in Azerbaijan
- Azerbaijan Tourism Board:Discover Gobustan’s ancient rock art
- Ministry of Culture of the Republic of Azerbaijan:Cultural Guide
- Springer Nature:Dario Sigariほか「Gobustan Rock Art Cultural Landscape (Azerbaijan)」
- Alpine and Mediterranean Quaternary:Dario Sigariほか「Rock Art Relationships between Central Asia and Europe: The Role of Gobustan (Azerbaijan)」


