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長岡百穴古墳とは?52基の横穴墓と石仏の歴史・見どころを解説

古代遺跡と考古学
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栃木県宇都宮市の長岡百穴古墳は、凝灰岩の斜面に数多くの墓室を掘り込んだ横穴墓群です。

「百穴」という名前から100基の墓が残っているように思えますが、現在確認できるのは東群44基と西群8基を合わせた52基です。

さらに、横穴の奥には地蔵菩薩や馬頭観音などの石仏が刻まれています。

ただし、横穴墓と石仏が造られた時代は同じではありません。

横穴墓は古墳時代終末期の7世紀前半、石仏は室町時代から江戸時代に加えられたものと考えられています。

ここでは、長岡百穴古墳の年代や構造、後世の石仏、弘法大師の伝承、現地を訪れる際に知っておきたい情報を紹介します。

長岡百穴古墳とは

宇都宮丘陵の南向き斜面に造られた横穴墓群

長岡百穴古墳(ながおかひゃくあなこふん)は、宇都宮市街地の北側に位置する長岡町の横穴墓群です。

「長岡横穴群」や「長岡の百穴」とも呼ばれています。

田川と鬼怒川の間に延びる宇都宮丘陵の南端近くで、凝灰岩が地表に現れた斜面を横方向に掘り、遺体を納める墓室が造られました。

凝灰岩とは、火山灰などが堆積して固まった岩石です。

長岡百穴古墳が掘られた地層は「長岡層」と呼ばれ、大谷石を産出する大谷層の上部に相当します。

土を盛って墳丘を築く一般的な古墳とは外観が異なりますが、古墳時代の埋葬施設である横穴墓の一群です。

1955年に栃木県指定史跡となった

長岡百穴古墳は、1955年(昭和30年)7月26日に栃木県指定史跡となりました。

現在の所有者または管理者は宇都宮市です。

宇都宮環状線の近くにあり、岩肌に開いた穴が道路側からも見えるため、宇都宮の歴史的景観を象徴する場所の一つになっています。

また、日本遺産「地下迷宮の秘密を探る旅―大谷石文化が息づくまち宇都宮―」の構成文化財としても紹介されています。

長岡百穴古墳はいつ造られたのか

古墳時代終末期の7世紀前半と考えられている

栃木県の文化財資料では、長岡百穴古墳が造られた時期を7世紀前半としています。

古墳時代終末期に当たり、時代区分によっては飛鳥時代として紹介される年代です。

そのため、「古墳時代の墓」と「飛鳥時代の遺跡」という説明は、必ずしも矛盾するものではありません。

古墳の築造が次第に終わりへ向かい、政治や葬送の形が変化していく時期に造られた横穴墓群と考えられます。

家族墓的な性格を持つ群集墓とみられる

栃木県は、長岡百穴古墳を群集墳の一種とし、家族墓的な性格を持っていた可能性を示しています。

群集墳とは、一定の地域に小規模な墓が数多く集まった遺跡です。

ただし、ここに葬られた人物の名前や具体的な身分は分かっていません。

公開されている公式資料からは、特定の豪族や一族の墓であると断定できる情報も確認できません。

近くの瓦塚古墳群との関係

長岡百穴古墳から北へ約400メートルの丘には、瓦塚古墳を含む瓦塚古墳群があります。

墳丘を築く瓦塚古墳群と、斜面を掘る長岡百穴古墳では墓の形が異なります。

しかし、両者は位置が近く、築造時期も一部重なります。

全国こども考古学教室では、この二つの墓域には密接な関係があったと考えられると説明しています。

どのような集団が墓の形式を使い分けたのかは、当時の地域社会を考えるうえで興味深い点です。

52基の横穴が並ぶ長岡百穴古墳の構造

東群44基と西群8基に分かれる

現在見ることができる横穴は、東群44基と西群8基の合計52基です。

「百穴」という名称ですが、100基の横穴が現存するわけではありません。

かつて本当に100基あったことを示す確実な資料も、今回確認した公的資料には掲載されていませんでした。

「百」は正確な数ではなく、多数の横穴が集まる様子を表した呼び名と考えておくのが適切です。

羽子板形の玄室と玄門

横穴の中心となる空間は、遺体を納めた玄室(げんしつ)です。

宇都宮市の文化財資料によると、玄室は奥へ向かって広がる羽子板のような平面形を基本としています。

玄室の入口に当たる玄門(げんもん)から、そのまま前庭部へ続く構造です。

一般的な横穴式石室で入口と玄室をつなぐ羨道(せんどう)に相当する、細長い通路は確認されていません。

玄門には扉石をはめたとみられる切り込みがあります。

扉石自体は残っていませんが、築造当時は多くの横穴に石の扉が取り付けられていたと推定されています。

アーチ状の奥壁や排水溝も見られる

栃木県の資料では、玄室の奥壁はアーチ状で、ほぼ垂直に立ち上がると説明されています。

床面に排水溝を備えた横穴もあります。

内部の形はすべて同一ではありません。

平らな天井を持つものやアーチ状の天井を持つものなど、複数の形態が確認されています。

一方、横穴群は全体的に後世の改変や破損を受けており、当初の姿をそのまま保つ墓室はないとされています。

現在の見た目だけから、築造当時の構造や使われ方をすべて復元することはできません。

横穴の奥に刻まれた石仏

石仏は古墳時代より後に加えられた

長岡百穴古墳の大きな特徴が、横穴の奥壁に刻まれた石仏です。

地蔵菩薩や馬頭観音をはじめ、如意輪観音や千手観音など、さまざまな姿の仏像が見られます。

これらを古墳時代の埋葬に伴う彫刻と考えるのは正確ではありません。

栃木県の文化財資料では、石仏は室町時代から江戸時代にかけて浮き彫り状に刻まれたと説明されています。

つまり、7世紀前半の墓が、数百年後に仏教信仰の場として利用されたことになります。

古代の墓と中世・近世の信仰が同じ場所に重なっている点は、長岡百穴古墳ならではの特徴です。

「弘法大師が一夜で造った」という伝承

地域には、横穴の石仏を弘法大師が一夜で造ったという言い伝えがあります。

弘法大師は、平安時代初期に真言宗を開いた空海に贈られた諡号です。

ただし、この言い伝えを裏付ける同時代の文献や考古学的な証拠は確認されていません。

また、公式資料が示す石仏の年代は室町時代から江戸時代であり、9世紀に生きた空海の時代とは一致しません。

弘法大師の作という話は、史実ではなく、石仏への信仰とともに地域で受け継がれてきた伝承として理解する必要があります。

発掘成果と現在も分かっていないこと

被葬者の名前や具体的な副葬品は分かっていない

今回確認した栃木県と宇都宮市の公開資料には、長岡百穴古墳の発見者や、発掘調査で出土した具体的な副葬品の一覧は示されていません。

被葬者の名前を明らかにする墓誌なども紹介されていないため、誰が葬られたのかは不明です。

家族墓的な性格を持つという見解はありますが、個々の横穴を特定の人物や家系に結び付けることはできません。

当初の姿を保つ横穴がない

墓室は後世に石仏が刻まれるなどの改変を受け、破損した部分もあります。

入口を閉じていたと考えられる扉石も現存していません。

そのため、古墳時代にどのような葬送儀礼が行われ、各墓室が何回使われたのかなど、詳しいことは分かっていません。

長岡百穴古墳には目を引く外観がありますが、本当の謎は超常的なものではなく、限られた痕跡から当時の人々と地域社会をどこまで読み解けるかという点にあります。

長岡百穴古墳の歴史的価値

古墳時代終末期の多様な墓制を伝える

長岡百穴古墳は、古墳時代の墓が大きな墳丘を持つものだけではなかったことを伝えています。

柔らかい凝灰岩の斜面を利用して墓室を造る方法からは、地域の地質と葬送文化の結び付きが読み取れます。

近隣には墳丘を持つ瓦塚古墳群もあり、異なる墓制が近接して存在していたことも重要です。

古代の墓が信仰の場へ変化した過程を残す

長岡百穴古墳は、7世紀前半に墓として造られた後、室町時代から江戸時代には石仏を祀る場所へ変化しました。

一つの遺跡が造られた時点だけで役割を終えず、後世の人々によって新たな意味を与えられた例といえます。

墓の構造と石仏を分けて観察すると、古代の葬送と中世・近世の民間信仰という二つの歴史が見えてきます。

地域の人々に守られてきた文化的景観

長岡百穴古墳では、地域の人々が清掃や除草、周辺の植栽や花壇の整備を続けてきました。

こうした活動が評価され、2005年度には宇都宮市の「まちなみ景観賞」を受賞しています。

長岡百穴古墳は考古学的な史跡であると同時に、地域が守り続ける身近な文化的景観でもあります。

長岡百穴古墳の見学情報

所在地・アクセス・料金

  • 名称:長岡百穴古墳
  • 読み方:ながおかひゃくあなこふん
  • 所在地:栃木県宇都宮市長岡町
  • 住所:栃木県宇都宮市長岡町373-3(日本遺産「大谷石文化」公式サイト掲載地)
  • 公開状況:常時公開
  • 料金:見学自由
  • 公共交通機関:JR宇都宮駅から関東バス「帝京大学」行きなどに乗車し、「豊郷台入口」下車、徒歩約10~15分
  • 車:東北自動車道「宇都宮IC」から約10分、「鹿沼IC」から約20分、北関東自動車道「宇都宮上三川IC」から約25分
  • 駐車場:あり、無料
  • 管理:宇都宮市
  • 問い合わせ:宇都宮市文化都市推進課、電話028-632-2764

公式サイトによって住所表記や徒歩時間にわずかな違いがあります。

訪問前には、宇都宮観光ナビの地図や最新の交通情報を確認してください。

現地で注目したい見どころ

最初に注目したいのは、凝灰岩の斜面に横穴が上下に並ぶ景観です。

東群と西群の配置を見比べると、横穴墓が一度に一つだけ造られたのではなく、墓域としてまとまりを形成していることが分かります。

次に、玄室の入口と奥壁の形、扉石をはめたと考えられる切り込み、床の排水溝などを確認してみましょう。

石仏を見る際は、墓室よりもはるかに後の時代に刻まれたことを意識すると、この場所がたどった長い歴史を想像しやすくなります。

文化財を傷つけないよう、彫刻や岩壁には触れず、公開範囲や現地の案内に従って見学してください。

長岡百穴古墳についてのFAQ

埼玉県の吉見百穴と同じ遺跡ですか

同じ遺跡ではありません。

長岡百穴古墳は栃木県宇都宮市にあり、吉見百穴は埼玉県比企郡吉見町にあります。

どちらも岩盤の斜面に造られた横穴墓群ですが、所在地、墓の数、構造、保存の経緯は異なります。

検索や現地への移動では、名称を取り違えないよう注意が必要です。

長岡百穴古墳は横穴式石室の古墳ですか

一般的な墳丘の内部に石を積んで横穴式石室を造った古墳とは異なります。

長岡百穴古墳は、自然の凝灰岩層を斜面から直接掘り込んだ「横穴墓」の集まりです。

名称には「古墳」とありますが、構造を説明するときは「横穴墓群」と表現する方が特徴を正確に伝えられます。

「百穴」なのに、なぜ52基しかないのですか

現在確認できるのは52基ですが、「百穴」という呼び名の由来を確定できる資料は見つかっていません。

日本語の「百」は、多数であることを象徴的に表す場合があります。

少なくとも、現在の52基という数だけを根拠に「48基が失われた」と断定することはできません。

まとめ

長岡百穴古墳は古代の墓と後世の信仰が重なる史跡

長岡百穴古墳は、宇都宮丘陵の凝灰岩層に掘られた52基の横穴墓群です。

古墳時代終末期の7世紀前半に造られ、家族墓的な性格を持つ群集墓だったと考えられています。

羽子板形の玄室や玄門、扉石を据えたとみられる切り込み、排水溝などが構造上の特徴です。

横穴の奥にある地蔵菩薩や馬頭観音などの石仏は、室町時代から江戸時代に加えられました。

弘法大師が一夜で造ったという話は地域の伝承であり、史実として確認されたものではありません。

被葬者や具体的な副葬品など不明な点は残りますが、古代の墓が後世の信仰の場へ変化した歴史を一か所で読み取れる貴重な史跡です。

主な出典元

参考にした公式・関連資料

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