南米ボリビアのアマゾン低地には、盛り土の集落、長い道路、運河、貯水池などが広い範囲に残っています。
これらは一般に「モホス文明」と呼ばれることがありますが、単一の王国や民族が築いた一つの文明だったと確認されているわけではありません。
とくに研究が進んでいるのが、モホス平原南東部でおよそ西暦500~1400年に栄えたカサラベ文化です。
2022年に発表されたLiDAR調査では、森林の下に隠れていた巨大な集落と階層的な都市網が詳しく捉えられました。
ここでは、モホス文明の年代と場所、都市の構造、農業、水利技術、人口、現在も残る謎を、考古学的に確認されている事実と未確定の説を分けながら紹介します。
モホス文明とは何か
ボリビア北部のモホス平原に残る先住民社会の痕跡
モホス文明とは、ボリビア北部のベニ県を中心に広がるモホス平原で発達した、先スペイン期の先住民社会を指す通称です。
モホス平原は「リャノス・デ・モホス」または「リャノス・デ・モホス/モクソス」と表記され、英語やスペイン語の資料では「Mojos」と「Moxos」の両方が使われています。
平原の面積はおよそ12万平方キロメートルに及び、森林、草原、河川、湖沼が入り交じっています。
雨季には広い範囲が冠水するため、暮らしや農耕には洪水への対応が欠かせませんでした。
古代の人々は環境に受け身で適応しただけではなく、盛り土、運河、道路、排水路などを築き、生活しやすい景観へと作り替えていました。
単一の統一国家ではなかった可能性が高い
「モホス文明」という名称から、一人の王が支配する大帝国を想像するかもしれません。
しかし、モホス平原の遺構は地域によって形や年代が異なり、土器の様式にも違いがあります。
現在の研究では、平原全体が一つの国家として政治的に統一されていたことを示す証拠は確認されていません。
複数の集団がそれぞれの環境に合った農業や水管理を行い、地域ごとに異なる社会を形成していたと考える方が実態に近いでしょう。
その中で、明確な集落の階層と大規模な土木施設が確認されているのがカサラベ文化です。
そのため、モホス文明を紹介する際には、広いモホス平原の考古学文化と、南東部のカサラベ文化を区別する必要があります。
モホス平原における人類の長い歴史
約1万年前には植物栽培が始まっていた
モホス平原における人間の活動は、カサラベ文化よりはるかに古い時代までさかのぼります。
森林島と呼ばれる周囲より少し高い土地からは、貝殻、動物の骨、木炭などが積み重なった層が発見されています。
2020年に『Nature』で発表された研究では、人々が現在から約1万850年前に人工的な森林島を形成し始めたと報告されました。
植物の微細な痕跡である植物珪酸体などの分析から、約1万350年前のキャッサバ、約1万250年前のカボチャ、約6850年前のトウモロコシ栽培を示す証拠も確認されています。
この発見は、南西アマゾンが世界でも早い時期に植物栽培が始まった地域の一つだったことを示します。
ただし、約1万年前の栽培者と、数千年後に現れるカサラベ文化が同じ民族や政治集団だったと証明されたわけではありません。
長い居住の歴史と、後世の都市的な社会をそのまま一つの連続した文明として扱うことはできません。
カサラベ文化はおよそ西暦500~1400年に発展した
モホス平原南東部では、およそ西暦500~1400年にカサラベ文化が発展しました。
研究によっては始まりを西暦400年頃とする場合もありますが、年代測定に使える遺跡がまだ限られているため、年代幅には多少の違いがあります。
現在確認されているカサラベ文化の分布域は、約4500平方キロメートルです。
この地域では189か所の大規模な記念物的遺跡、273か所の小規模遺跡、総延長957キロメートルに及ぶ運河と盛り土道路が、過去の調査で記録されてきました。
こうした遺構は、長期間にわたって多くの人々が定住し、共同で土木工事と維持管理を行っていたことを示しています。
洪水の平原を作り替えた土木技術
盛り土の上に築かれた集落
モホス平原では雨季になると広い低地が水に覆われます。
そこで古代の人々は、土を積み上げたロマと呼ばれる高台に住居や公共施設を築きました。
発掘調査では、カサラベ文化の盛り土が粘土や生活廃棄物を重ねながら段階的に拡張されたことが分かっています。
大量の土器片や生活の痕跡も見つかっているため、これらは祭祀のときだけ使う場所ではなく、人々が年間を通して暮らす集落でもありました。
周囲より高い場所に住むことで洪水を避けられるだけでなく、集落そのものが地域の目印や中心地として機能したと考えられています。
運河と盛り土道路が集落を結んだ
カサラベ文化の集落は、一直線に延びる盛り土道路と運河によって結ばれていました。
盛り土道路は冠水時でも移動しやすい通路となり、運河は排水、給水、移動など複数の役割を担った可能性があります。
コトカ遺跡では、約7キロメートル離れたサン・ホセ湖から水を導く運河も確認されました。
道路と運河が大きな中心地から小規模集落へ伸びる配置は、各集落が孤立していたのではなく、物資、人、情報が行き交う一つの地域網を形成していたことを示します。
ただし、すべての運河の用途が特定されているわけではなく、同じ施設が季節によって異なる役割を果たした可能性もあります。
雨季と乾季の両方に対応した水管理
2025年に発表された研究では、カサラベ文化が排水路と農業用の池を組み合わせていたことが明らかになりました。
雨季には排水路で草原の余分な水を湖へ流し、乾季には池の周辺に残る水を利用して農耕を続けたと考えられています。
調査された排水路には、細い水路から幅14メートルほどの幹線水路へ水を集める段階的な構造がありました。
これは単純な溝ではなく、平原全体の高低差と水の流れを理解して設計された施設です。
カサラベ文化の都市網
コトカとランディバルの巨大集落
2022年のLiDAR調査では、合計204平方キロメートルの範囲が上空から測量されました。
LiDARとは、航空機などからレーザー光を照射し、樹木に覆われた地表の細かな起伏を測る技術です。
調査によって、2か所の大規模集落と24か所の小規模遺跡が詳しく記録され、そのうち11か所はそれまで知られていませんでした。
主要な中心地であるコトカ遺跡は約147ヘクタール、ランディバル遺跡は約315ヘクタールに達します。
中心部には人工の基壇、U字形の建造物、長方形の盛り土、円錐形の土のピラミッドが配置されていました。
最も高い構造物は周囲の平原から約22メートルの高さがあり、石ではなく大量の土を積み上げて造られています。
両遺跡の周囲には同心状の堀と土塁も確認されており、防御や出入りの管理に関係した可能性があります。
四段階の集落階層が示す社会構造
LiDARで確認された集落は、規模、公共建築、囲い、道路、水利施設の違いから、四段階の階層に分類されました。
コトカやランディバルのような大中心地の下に、二次的な中心地、小規模な中心地、森林島上の小さな活動地点が配置されています。
小さな集落から上位の中心地へ道路が伸びる構造は、地域内に一定の政治的・社会的な序列があったことをうかがわせます。
大規模な基壇や運河を造るには、労働力を集め、工事を計画し、長期にわたって施設を維持する仕組みも必要だったでしょう。
一方で、王、宮殿、官僚制度、国家の境界を直接示す資料は見つかっていません。
集落の階層が確認されたことと、中央集権的な王国が存在したことは同じではないため、政治制度の詳しい姿は未解明です。
「都市」と呼べるのか
カサラベ文化の集落網は、研究論文で「低密度都市」と表現されています。
低密度都市とは、建物が狭い範囲に密集する都市ではなく、住居、畑、森林、水路などが広い景観の中に分散しながら、道路と中心施設で結ばれた都市の形です。
研究者たちは、カサラベ文化の集落配置がアマゾン低地ではそれまで知られていなかった都市形態を示すと評価しました。
ただし、2022年の研究でもコトカとランディバルには、一般的な「都市」ではなく「大規模集落」という慎重な呼称が使われています。
現代都市と同じ景観を想像するのではなく、農地と自然環境を内部に含む広域的な集落網として理解することが大切です。
モホス文明の農業と食生活
トウモロコシを中心とした集約農業
2025年の研究では、排水された畑、農業用の池、森林から採取した178点の土壌試料が分析されました。
畑と池ではトウモロコシの植物珪酸体が広く確認された一方、周辺の森林には焼畑農業を示す痕跡が見つかりませんでした。
この結果から、カサラベ文化は雨季と乾季に対応する水管理施設を使い、草原で一年を通した集約的なトウモロコシ栽培を行っていたと考えられています。
森林を全面的に切り開くのではなく、草原を農地として利用し、限られた森林は燃料、建材、薬用植物などを得る場所として残していた可能性があります。
水路や池を共同で維持する必要があったことは、食料生産と社会組織が密接につながっていたことを示します。
キャッサバや魚、野生動物も利用した
農業施設がトウモロコシに重点を置いていたからといって、食事がトウモロコシだけだったわけではありません。
遺跡からはキャッサバ、カボチャ、落花生、ヤムイモ、ヤシ類など、複数の有用植物の痕跡が確認されています。
狩猟と漁労も重要で、魚や野生動物からたんぱく質を得ていました。
季節によって水域の広さが大きく変わる環境では、畑、池、河川、森林を組み合わせて利用することが、安定した生活につながったと考えられます。
土器と交易の痕跡
盛り土遺跡からは大量の土器が出土しており、器の形や文様はカサラベ文化の年代を整理する重要な手がかりになっています。
一方、モホス平原南東部には地表に露出した岩石がほとんどありません。
遺跡で石器がまれに見つかることから、石材や石器は遠方との交換によって持ち込まれたと考えられています。
しかし、どの地域と、どのような品物を継続的に交換していたのかについては、まだ十分に解明されていません。
信仰と世界観はどこまで分かっているのか
公共建築と埋葬の方位
コトカとランディバルの公共建築は、北北西に近い方向へ比較的そろえて配置されています。
カサラベ文化の伸展葬と呼ばれる、遺体を伸ばして納める埋葬にも似た方位が見られるため、研究者は共通する世界観が反映された可能性を指摘しています。
ただし、その方向が太陽、星、祖先、特定の神を意味したと判断できる資料はありません。
建物の向きだけを根拠に、天文台や太陽信仰の施設だったと断定することはできません。
神話や文字記録は確認されていない
カサラベ文化が自ら残した文字記録は、現在まで確認されていません。
そのため、神の名前、儀礼の内容、支配者の系譜、集落の呼び名などは分かっていません。
後世のモホス系先住民には豊かな伝承がありますが、それを数百年前のカサラベ文化へ直接さかのぼらせるには慎重さが必要です。
現在暮らすモホスの人々と遺跡を築いた人々の間に、文化的または祖先的なつながりがある可能性は否定できませんが、両者を同一集団と断定する考古学的証拠は不足しています。
モホス文明はなぜ衰退したのか
大規模集落が使われなくなった理由は未解明
カサラベ文化の大規模な集落網は、およそ西暦1400年頃までに使われなくなったと考えられています。
しかし、放棄の時期を詳しく示す年代資料は限られ、衰退の直接的な原因も確定していません。
重要なのは、この時期がスペイン人による地域の本格的な支配より前だという点です。
したがって、カサラベ文化の終焉をヨーロッパ人の征服や感染症だけで説明することはできません。
環境の変化、農業生産の問題、集落間の関係、人口移動などを検討する余地はありますが、現時点ではどれか一つを原因として示す証拠が不足しています。
文明が消えて無人の土地になったわけではない
カサラベ文化の集落網が終わった後も、モホス平原から人間が完全にいなくなったわけではありません。
ヨーロッパ人が到来した時代の記録には、モホ、バウレ、モビマ、イトナマなど、異なる言語と文化を持つ複数の先住民集団が登場します。
17世紀後半以降にはイエズス会の布教拠点が設けられ、病気、強制的な移住、奴隷狩り、植民地支配によって地域社会は大きく変化しました。
ただし、植民地時代に記録された各集団と、先スペイン期の個々の遺跡文化を一対一で結び付けることは困難です。
モホス文明がアマゾン史を変えた理由
「手つかずの原生自然」という見方を問い直した
かつては、アマゾンの土壌や気候では多数の人が定住する複雑な社会は発達しにくいという見方がありました。
モホス平原で確認された盛り土集落、農地、水路、道路は、その見方を大きく修正する証拠となっています。
人々は自然を完全に破壊したのではなく、洪水と乾燥の周期を読みながら、草原、森林、水域の役割を分けて利用していました。
現在の景観にも、人間が長期間にわたって手を加えた結果が残っている可能性があります。
ただし、カサラベ地域は比較的肥沃な土壌を持つなど、アマゾン全域と同じ条件ではありません。
一地域の成果をそのままアマゾン全体へ当てはめず、地域ごとの環境と文化の違いを見る必要があります。
人口はどのくらいだったのか
遺跡の規模が明らかになっても、住民の正確な人数を直接数えることはできません。
2025年に発表された研究は、土木工事に必要な労働力、農地の収容力、人口増加のモデルを組み合わせ、約5020平方キロメートルの調査範囲に1万~10万人が暮らした可能性を示しました。
多くの計算結果は1万~3万人の範囲に収まりましたが、これは複数の仮定に基づく推計です。
詳しく発掘された盛り土遺跡がまだ2か所ほどに限られるため、1万~10万人という数字を確定した人口として扱うことはできません。
少なくとも、季節的に訪れる小集団だけで全遺構を説明するのは難しく、相当数の定住人口と組織的な協力が存在した可能性は高いといえます。
モホス文明に関するよくある質問
モホス文明とカサラベ文化は同じものですか?
完全に同じ意味ではありません。
モホス文明はモホス平原の先スペイン期社会を広く指す通称で、カサラベ文化はその南東部でおよそ西暦500~1400年に栄えた、考古学的に区別される文化です。
モホス文明には本当にピラミッドがありましたか?
はい、カサラベ文化の中心地では、円錐形や基壇状の盛り土建築が確認されています。
ただし、エジプトや中南米の石造ピラミッドとは異なり、主な材料は土で、公共活動や儀礼に関係したと考えられる建築群の一部です。
モホス文明はアマゾン最古の文明ですか?
「アマゾン最古の文明」と断定することはできません。
モホス平原には約1万年前までさかのぼる人間活動と植物栽培の証拠がありますが、それは後世の都市的なカサラベ文化そのものではありません。
人類の居住、農耕の開始、複雑な社会の成立は分けて考える必要があります。
宇宙人や失われた超古代文明が造った遺跡ですか?
そのような説を裏付ける考古学的証拠は確認されていません。
盛り土、道路、運河は、現地の先住民社会が長い時間をかけて蓄積した農業技術、水管理の知識、共同労働によって説明できます。
まとめ
モホス文明は、一つの巨大帝国というより、ボリビアのモホス平原で長期にわたって発達した複数の先住民社会を表す通称です。
その中でもカサラベ文化は、盛り土の中心地、四段階の集落網、長い道路、運河、排水路、農業用の池を築き、洪水の多い環境に対応していました。
LiDAR調査と発掘成果は、コトカやランディバルが公共建築を備えた大規模集落であり、周辺の小集落と密接に結ばれていたことを示しています。
一方、政治制度、言語、神話、支配者、衰退の原因は分かっておらず、人口も幅のある推計にとどまります。
モホス平原の遺跡が伝えているのは、古代アマゾンの人々が自然に翻弄されるだけの存在ではなく、水と土地の性質を理解し、独自の都市的景観を築いたという事実です。
主な出典元
記事作成で参照した研究・関連資料
- Nature「Lidar reveals pre-Hispanic low-density urbanism in the Bolivian Amazon」
- Nature「Maize monoculture supported pre-Columbian urbanism in southwestern Amazonia」
- Nature「Early Holocene crop cultivation and landscape modification in Amazonia」
- PLOS ONE「Early and Middle Holocene Hunter-Gatherer Occupations in Western Amazonia: The Hidden Shell Middens」
- PLOS ONE「Constraining the population size estimates of the pre-Columbian Casarabe Culture of Amazonian Bolivia」
- University of Bonn「Early urbanism found in the Amazon」
- Cambridge University Press「Mission Culture on the Upper Amazon: Native Tradition, Jesuit Enterprise and Secular Policy in Moxos, 1660–1880」書評情報


